関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1867 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」3 尾下成敏氏の講演3 言経への家康の報酬

<<   作成日時 : 2017/03/11 11:41   >>

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 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、徳川の在京賄料としての近江9万石がいかに破格の待遇であったのかについては、前田家は1864石、上杉家でも1万石に過ぎなかったという例が挙げられていました。もっとも、近江の徳川領のまわりには、別の大名の所領があり、相互に監視させ、牽制させるのが秀吉の目的だったという指摘もされていました。
 近江徳川領の支配を担っていたのは、近江出身者であり、美濃部右馬丞と猪飼勘左衛門尉の名が挙がっていました。
 美濃部については、文禄4年(1595)5月に「彦坂元正・大久保長安・伊奈忠次が、美濃部右馬丞に対し、土山郷の伝馬の飼料として屋敷年貢30石を給与する」という「土山共有文書」の記述が取り上げられていました。
 猪飼については、同年12月に「猪飼勘左衛門尉、石川家成の指示を受け、山科言経に合力米10石を近江枡で渡す」という「言経卿記」の記述が取り上げられていました。
 山科言経に対しては、文禄元年に、石川家成が扶持米15俵を近江俵で渡しています(「言経卿記」)が、家康の家臣が言経に「近江俵」「近江枡」で報酬を渡しているのは、言経が漢文で書かれた書物を家康に講釈したり、徳川家の系図や書物を書写したり、家康が書物を購入する際のサポートをしてくれたりしたことに対してのものだと、講演会で説明されていました。
 ちなみに、同年7月に三成は正式に佐和山の城主になり、北近江四郡を所領として与えられました(19万4千石)。この時、同じく豊臣政権の奉行だった長束正家は水口5万石の城主に、増田長盛は大和郡山20万石の城主に、前田玄以は丹波亀山城5万石の城主に任じられていますから、畿内を秀吉側近の奉行で固めた形です。
 やはり、秀吉は自分のまわりを側近で固めたかったのだと思われますし、家康に近江で9万石を与えながらも、関東の家康になにがしかの警戒心は持っていたはずです。そうでなければ、尾張、三河、遠江、駿河までの東海道の各城に豊臣恩顧の大名をずらりと配置するはずがありません。
 講演会でも、前述したように、家康は豊臣政権を支える存在だったという論が展開されていましたが、秀吉と家康の緊張関係が全くなかったわけではないということも述べられていました。
  
 
 

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