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zoom RSS 石田三成の実像1869 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」5 尾下成敏氏の講演5 二大老制

<<   作成日時 : 2017/03/13 21:11   >>

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 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、家康が豊臣政権を支える存在だったということが指摘されていましたが、その根拠の一つとして、文禄元年3月、秀吉が名護屋に出陣した時、家康は伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣ら東国大名の指揮をとっていたことも挙げられていました。
 秀吉が名護屋に向けて京から出陣するのは3月26日です(藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動{天正10年6月以降}《藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載》)が、三成はこれに先立って大谷吉継と、2月20日に京から出陣しています(中野等氏「石田三成伝」【吉川弘文館】)。
 一方、家康が名護屋に向けて京を出発したのは3月17日であり、(相田文三氏「徳川家康の居所と行動{天正10年6月以降}」《}藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載》)秀吉に先立つこと9日前です。
 文禄元年(1592)3月、秀吉が名護屋に出陣した時、家康は伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣ら東国大名の指揮をとっていたことも挙げられていました。
 講演会では、文禄2年に家康と前田利家の「二大老制」が始動したとの跡部信氏の見解が取り上げられていました。その具体例として、浅野長政に謀反の疑いがかかった時に、二大老がその嫌疑を晴らしたということが挙げられていました。この跡部氏の見解については、私は聞き初めだったので、その見解の詳しい内容を把握した上で、拙ブログで改めて取り上げたいと思います。
 文禄4年7月の秀次事件直後に、秀吉が坂東の仕置を委ねたという点も挙げられていましたが、これは7月24日付で出された徳川家康・毛利輝元・小早川隆景の連署起請文に記されている内容であり、坂西は輝元と隆景に仕置を任せるというものです。それが第4条の内容ですが、第5条には、いつも在京して秀頼に奉公すること、やむなく帰国する時には、家康と輝元が交替で帰るということが記されています。
 慶長3年8月、秀吉の死の直前に、家康は五大老になったことも述べられていましたが、権限は家康と利家に集中していたと指摘されていました。もっとも、この時、五奉行制も敷かれていますから、秀吉死後、実際は五大老・五奉行による政権運営がされていきました。しかし、抜きんでた所領を持っていた家康が一番力があったたのは事実であり、次第に専横な態度を取り始め、他の大名たちを屈服させていきました。もっとも、あくまで家康は表面上は豊臣政権を支えるという立場を貫き、それは関ヶ原の戦いまで続きましたから、東海道に所領を持つ豊臣家恩顧の大名たちが、揃って家康側に付いたのも裏切りとは言えず、無理からぬ面もあったのではないでしょうか。
 
 

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