関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1870 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」6 松下浩氏の報告1 徳川の近江の拠点

<<   作成日時 : 2017/03/14 10:46   >>

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 写真は膳所城の天守閣跡碑を3月4日に撮ったものです。膳所城跡公園の中にあります。「大津から膳所へ」の現地探訪会の際に寄りました。前述したように、かつては本丸と二の丸は橋でつながっていましたが、寛文2年(1662)の大地震によって主要部が倒壊し、修復によって本丸と二の丸は合体しました。
 このことについては、翌5日に行なわれた「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、膳所城についての説明がなされ、上記の点についても改めて触れられていました。
 膳所城については、他にも「本丸・二の丸が琵琶湖に突き出た水城」、「堀が琵琶湖と接続」、「経済拠点である大津に近く、琵琶湖水運・瀬田川水運を押さえる要地」、「東海道が城下を通る水陸両方の要所」などと説明されていました。
 大津が経済拠点であったのに対して、膳所城下には町屋が少ないことが挙げられていましたが、この点については、前日の現地探訪で、膳所城の古地図がレジュメに掲載されており、武家屋敷はたくさんあるものの、町屋は少ししか載っていませんでした。武家屋敷も城からの距離が遠くなるにしたがって、規模も小さくなっていき、上級武士は城の近く、下級武士は城から遠いところにあったことも説明されていました。
 松下氏の報告では、徳川近江の拠点城郭として、膳所城と彦根城が挙げられていました。どちらも各地の大名を動員して築城する天下普請で作られました。膳所城が作られたのは慶長6年のことであり、彦根城は慶長9年に第一期普請が行われ、第二期は大坂夏の陣後に行なわれました。まず鐘の丸が作られましたが、大坂に対する最前線を優先したと説明されていました。
 この鐘の丸の石垣に、三成の居城であった佐和山の石垣が使われているのがわかったのは、数年前のことでした。それまで佐和山城の石垣がどうなったかがわからず、その謎について新聞記事になったこともありましたが、調査の結果、彦根城で使われていることがわかりました。佐和山城の石垣が発見された直後に行なわれた現地見学会(2015年3月21日に行なわれた「彦根城石垣探検隊」と題するもの)に私も参加しましたが、その報告は以前、拙ブログ記事でしました。この時のレジュメに、次のように記されています。
 「鐘の丸は『井伊年譜』などをはじめとすた文献史料に彦根城で最初に完成した曲輪であるとの内容の記述があることや、城の正面玄関である大手門橋から見える位置という立地条件からも井伊家の居城移転を石垣で示したものとも考えられます。このことは領主権力の移動を石垣で誇示したともいえるでしょう」と。
 すなわち、領主が三成から井伊家に代わったことを領民に示すものだったというわけです。

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