関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1871 映画「関ヶ原」に期待・「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」7 松下浩氏の報告2

<<   作成日時 : 2017/03/15 17:34   >>

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 岡田准一さんが三成を演じる映画「関ヶ原」の8月26日の公開が待たれます。どんな姿が見られるか、いかに壮大な映画に仕上がっているか、楽しみです。もっとも、原作は司馬遼太郎氏の小説ですから、従来通りの描き方をされないか、懸念されます。家康=北政所=清正・正則ら武断派大名VS三成=淀殿=近江吏僚派という構図、関ヶ原の合戦は家康の問い鉄砲で決まったとするような戦いの経緯など。こういう点のおかしさは拙ブログで指摘してきましたが、そういう従来からの見解がそのまま踏襲されているのか、最近の研究成果が取り入れられているのか、注目したいと思います。
 さて、「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、関ヶ原合戦後の政治動向について説明されていました。
 まず東軍の福島正則・細川忠興・黒田長政・池田輝政ら豊臣系大名が大幅加増され、西国に配置され、近江は徳川系大名の最西端だったと説明されていました。
 また関ヶ原合戦の勝利によって、徳川の天下は確立したのかという点については、従来はそう考えられ、豊臣家は摂津・河内・和泉65万石を領する一大名に転落したと捉えられてきたが、近年はそうした見方に否定的な見解が主流になってきていると述べられていました。
 その見解の一つとして、笠谷和比古氏の豊臣・徳川二重公儀体制が取り上げられていました。徳川家康は将軍として諸大名に対する軍事指揮権を有するが、豊臣秀頼は成人後は関白として統治を行なうというもので、将軍と関白による二重統治の体制だったとするものです。
 もっとも、実際、秀頼が関白になったことはありませんが、秀頼が関白に任じられるのではないかという噂が立ったということが、福田千鶴氏の「豊臣秀頼」(吉川弘文館)に記されています。
 すなわち、「家康の将軍就任に連動して、秀頼に関白宣下があるとの風聞があった」と。
 その証左として、慶長8年1月10日付の毛利輝元書状に、「内府(家康)様将軍ニ被成せ、秀頼様関白ニ御成之由候、目出たき御事候」という記述があることが挙げられています(この記述は、本多隆成氏の「定本 徳川家康」【吉川弘文館】でも取り上げられています) 。また4月22日、「秀頼への勅使派遣を聞いた鶴峯宗松(慈恩寺住持)は『関白宣下』ではないかと予測したが、実際には内大臣宣下であった(『鹿苑』)」ということも記されています。
 秀頼が関ヶ原の戦い後、65万石の大名に転落したという見方に対しては、やはり福田氏の同書で否定されています。慶長17年に秀頼が黒印で発給した知行宛行状が、五ヵ国七郡に及んでいること、慶長16年の「大坂衆」44人の知行地が、計19万7670石に及んでいることなどが根拠として挙げられています。 

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