関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1872 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」8 松下浩氏の報告3 豊臣体制の存続 

<<   作成日時 : 2017/03/16 21:46   >>

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 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、関ヶ原合戦後の政治動向について説明され、関ヶ原合戦後も豊臣家の影響力は依然として大きかったということについて、笠谷和比古氏の見解が紹介されていることは拙ブログで触れました。
 慶長16年(1611)の豊臣秀頼と徳川家康の二条城会見に関しても、「徳川家康の優位が確立したものではない。家康は秀頼を庭先で出迎え、『互の可有御礼』(『当代記』)〜対等の礼儀〜を提案。上下関係を決定づけるものではない」と解説されていました。
 もっとも、こういう笠谷氏の見解は、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)で否定的な見解が示されています。
 すなわち、「秀頼が大坂城を出て、京都にある徳川の城である二条城にやって来た自体に決定的な意味があるのであって、それは家康に対する『御礼』といわれているように、臣従化を示す以外の何ものでもなかった」と指摘されています。
 これには、本多氏の見解の方に分があるように思えますし、当時の人々も事実上の「臣従化」と捉えていたのではないでしょうか。
 関ヶ原合戦後も秀吉の築いた体制が続いたという点について、松下氏の報告では、矢部健太郎氏の見解も紹介されていました。矢部氏の見解については、拙ブログでも「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)などをもとにして取り上げてきましたが、秀吉は「豊臣宗家(摂関家)を頂点とする武家家格制」を確立したと、松下氏の報告で説明されていました。
 すなわち、「豊臣摂関家(豊臣宗家)ー『清華成』大名ー『公家成』大名ー『諸太夫成』大名」という「公家社会の序列を適用した」。家康は「清華成」大名であり、「清華成」大名として他に前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝・羽柴秀長・羽柴秀次・小早川秀秋・織田信雄が任じられており、「豊臣宗家に次ぐナンバー2グループを形成し、家康を牽制」し、「関ヶ原合戦後もこの体制は存続した」と。
 秀吉がこういう体制を築いたことから、家康は関ヶ原合戦後、新たな体制を築く必要があり、それが征夷大将軍就任、徳川幕府開設ということにつながったと云えます。
 ちなみに、三成は「諸太夫成」大名でした。矢部氏の同書では関ヶ原合戦のいわゆる「西軍」を「正規軍」という呼び方がされていますが、「正規軍」に就いた「諸太夫成」大名として、三成の他に増田長盛・小西行長・大谷吉継・長束正家・鍋島勝茂の名が挙げられています。
 

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