関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1874 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」10 松下浩氏の報告5 大坂城包囲網

<<   作成日時 : 2017/03/18 11:09   >>

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 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏の報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、近江に移封された徳川系大名の領地として、井伊直政の佐和山から彦根18万石、戸田一西の大津から膳所3万石が挙げられていました。両者とも最初与えられた城は廃城になりました。近江が徳川系大名の最西端だということについては再三述べられていました。報告の後に行なわれたパネルディスカッションの中で、下高大輔氏は、佐和山が井伊直政の居城になったのは、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)3月のことであり、直政自身はその翌年の慶長7年に佐和山に亡くなるものの、生きている時から佐和山城の廃城を考えていたことを指摘されていました。そこには、三成の痕跡を消し、自分が新しい領主であることを領民に知らしめたかったからかもしれません。
 また大坂城包囲網についても説明されていました、すなわち、「徳川一門・譜代・恩顧の大名を大坂城周辺に配置」し、「西国の豊臣系大名との連絡を絶って孤立化」をはかったと。
 具体的には、清州に松平忠吉を配し、やがて徳川義直に変わり、慶長15年に天下普請で名古屋城を築城します。姫路には慶長5年に池田輝政を配し、輝政は姫路城を新たに築きます。桑名には本多忠勝を慶長6年に配し、忠勝は桑名城を築城します。福井には慶長6年結城秀康が入りますが、天下普請で福井城が作られます。徳川家の京の拠点として二条城が慶長6年に天下普請で作られます。亀山には岡部長盛が入りますが、慶長14年に天下普請で亀山城が作られます。篠山には松平康重に入りますが、やはり慶長14年に天下普請で篠山城が築かれます。伊賀上野には藤堂高虎が入り、慶長16年に上野城を築きます。
大坂包囲網の形成については、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)には、次のようなことが記されています。
 慶長13年6月、「藤堂高虎が22万950石で伊賀・上野に入封した。高虎はこの後慶長16年から、大坂方に備えた伊賀上野城や伊勢津城の改築を行った。この高虎に注目された藤田達生氏は、大坂包囲網の実像を名古屋から近畿、そして中国・四国の瀬戸内海沿岸に及ぶ巨大な城郭網であったといわれている」
 同年9月、丹波八上城に「譜代大名松平康重が加増のうえ5万石で入封した。これは徳川家にとっては、畿内から西にはじめて譜代大名を配置したという意義があった。康重による八上城の修築は同年末には断念され、新たに篠山に築城することになった。この篠山築城は、大坂城への備を重視する家康によって御手伝普請とされた」などと。
 「御手伝普請」は「天下普請」であり、徳川家が諸大名を動員して城などを作ることです。
 
 

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