関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1876 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」12 下高大輔氏の報告2 文禄4年城郭体制

<<   作成日時 : 2017/03/20 10:25   >>

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  「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の下高大輔氏の報告で、文禄4年に三成が佐和山の城主になった後、惣構にし、城郭範囲を拡大したと説明されていました。城下町に外堀・町屋・金属工房を作ったことが挙げられていました。
 文禄4年には秀次事件が起こり、そのことが大きな画期となり、それを文禄4年城郭体制の成立だと、下高氏の報告では述べられていました。秀次が居城としていた八幡山城は廃城となります。大溝城も廃城となり、その殿主を水口城に運び、本丸に東櫓を建てたということが、下高氏の報告の後に行なわれた小谷徳彦氏の報告「姿を現した幻の城 水口岡山城」で明らかにされていました。その時の水口城主は長束正家でした。本丸には西櫓もありましたが、水口城を築城した中村一氏の時だということも小谷氏の報告で述べられていました。
 大坂城、伏見城の惣構が作られたのは、文禄3年のことであり、佐和山城の惣構もその一環だということも述べられていました。
 関ヶ原の戦いの後、佐和山城が破却された時も、丁寧にされており、完全な山に戻したということも指摘されていました。これは以前に行われた、林昭男氏の講演会でも、井伊家は佐和山を聖なる山に戻したという見方をされており、徹底的な破城は、城主だった三成の痕跡を消すためたっただけではなく、聖なる山に戻すためもあったのかもしれません。聖なる山に戻すということについては、三成やその一族・家臣の怨霊を恐れてのことだとも考えられます。実際、江戸時代、井伊家に不幸なことが続いたので、佐和山の中腹に「石田群霊碑」を建て、石田一族の霊を弔いました。「石田群霊碑」については、以前、オンライン三成会の人々と訪ねたことがあります。清凉寺の境内にあるので、住職さんのご配慮で参拝させていただきました。
 江戸時代、佐和山は長い間入山禁止になっていたという事実は、領民たちから三成たちの痕跡を消すためという見方は捨てきれない気がします。
 下高氏の報告では、天正13年から18年の段階において、大坂城型、聚楽第型、八幡山城型の城郭が配置されたと説明され、その城郭配置図がレジュメに掲載されていました。大坂城型は北に上段、南に中段、その周りを石垣と堀で囲み、その西に下段が配置されている構造のもので、同じ型のものとして豊臣秀長が改修した大和郡山城、宇喜多秀家が改修した岡山城があると説明されていました。聚楽第型は、南北に上段、中段、その周りをやはり石垣と堀で囲み、その南に下段が配置されている構造のもので、同じ型のものでは毛利輝元が築城した広島城があると説明されていました。
 八幡山城型は山上に曲輪群、山裾に曲輪群があり、それを堀や土塁が囲んでその外に城下町にある構造のもので、同じ型のものとして、水口城と佐和山城が挙げられていました。
 

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