関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1877 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」13 小谷徳彦氏の報告 水口城をめぐって

<<   作成日時 : 2017/03/21 10:43   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の中の、甲賀市教育委員会事務局歴史文化財課の小谷徳彦氏の報告「姿を現した幻の城 水口岡山城」で、秀吉が天正13年(1585)4月、甲賀衆を改易処分にして、中村一氏を入封させ、水口岡山城を築城させたこと、その目的は甲賀の支配の拠点にし、東国支配の拠点にすることだったと説明されていました。城主はその後、天正18年に増田長盛、文禄4年に長束正家と替わりました。
 関ヶ原の戦いで、長束正家は三成方に就いたため、水口城は家康方に攻められ、開城し、池田長吉が撤収します。後のパネルディスカッションで、その後の水口城について、小谷氏によって説明されていました。池田長吉は水口城の金銀を与えられ、管理を任されたこと、池田の後は美濃部茂盛が管理したこと、慶長6年に水口宿が作られたこと、元和6年、水口御殿に水口城の用材を持って行ったこと、水口城は用材供給地になったことなど。
 小谷氏の報告では、水口岡山城の発掘調査によってわかったこととして、石垣の採用は主郭部周囲とプラスアルファだったこと、主郭部には東西に構造の異なる櫓が築かれたこと、西櫓を構築したのは中村一氏であり(このことは拙ブログで前述していますが)、妙法寺銘の軒平瓦が出土していること、東櫓は文禄4年以降、大溝城殿主が運ばれて建てられ(このことも拙ブログで前述しました)、織田系や豊臣系の軒瓦が出土していること、城内で虎口形態が異なることなどが挙げられていました。
 小谷氏の報告では、古地図と文献史料から見た城下町の姿についても説明されていました。すなわち、「紡錘形の三筋町」で、「近世東海道水口宿の東半分」であり、「西端は石橋、東端は円福寺」であったこと、山麓に「3つの枡形と内堀」があったことなど。
 レジュメの「水口岡山城関連年表」には、慶長5年6月18日に「長束正家、徳川家康暗殺を計画するも未遂に終わる」と記されています。このことについては、よく小説などでは描かれており、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」でも、長束と示し合わせた嶋左近が家康を襲おうとするものの、家康は危険を察知して水口には立ち寄らず走り抜けるという描き方になっています。映画「関ヶ原」でも、原作通り描かれる可能性がありますが、これは家康が大坂を空にすれば、三成が挙兵すると見越していたという捉え方に基づくもので、家康が長束を警戒していたというのも、その流れに即しています。しかし、家康は三成が挙兵するとは思っていなかったのが本当のところではなかったと私は思っていますし、前年の加賀攻めを行おうとした時も、三成は家康の意向を受けて前田家を牽制する動きに出ており、会津攻めでも引退していた三成に代わって、嫡男の重家を会津攻めに同行することに同意しています。長束の暗殺計画も、後世に作られた話のような気がして仕方がありません。 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1877 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」13 小谷徳彦氏の報告 水口城をめぐって 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる