関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1878 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」14

<<   作成日時 : 2017/03/22 21:44   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられており、その内容を拙ブログで紹介してきましたが、しばらく間が空いてしまいました。これは2月25日付拙ブログの続きです。
 「1600年日本年報補遺」には「多くの地に分散した軍勢を擁していた奉行たちは軍勢を美濃の国へ集結させる意図を少しも棄てず、それを実行した。そこで八万人を集結したが、その力をもってすれば、内府様側についてそれらの地にいたすべての軍勢が、短時間で殲滅し根絶されうるものであった。しかし、奉行たちの相互間の意見の一致はいとも乏しく、全三十日の間に、三万にも満たぬ敵の軍勢に対して、たった一度さえ攻撃をかけなかったほどである」と。
 むろん、「奉行たち」は三成・輝元方を指していますが、「全三十日間」について、白峰氏の同書では、「8月中を指すと考えられる」と考察されています。もっとも、実際は三成・毛利方の軍勢が「八万人」になったのは9月になってからだと思われます。この点について、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、「9月2日大谷吉継が関ヶ原山中村に布陣し、3日に宇喜多秀家が大垣城に入城し、7日に毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家・長宗我部盛親が南宮山付近に着陣した」と記しました。
 このうち、大谷の動向については、高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」の中で、「伊勢方面から大垣にきて、九月十五日未明に関ヶ原方面撤退していった」という新見解が出されていますが、これに対して、白峰旬氏の「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する」(『史学論叢』第46号所載)の中で、さまざまな根拠を挙げながら否定的な見解が示されています。
 「奉行たちの相互間の意見の一致はいとも乏しく」という記述に関して、白峰氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」の中で、石田・毛利方は「多数の人々によって指揮されていたので、遅延と緩慢以外の何ものもなかった」という「1600年日本年報補遺」の記述が挙げられ、「宣教師側の史料が、このようなマクロな意味での石田・毛利方の敗因分析をしていることは、日本側の史料には見えない点であり注目される」、「石田三成一人が指揮していたわけではなかっことを示しており、石田・毛利方の軍事指揮のあり方を考えるうえで重要である」などと指摘されています。
 こういう指揮に関する宣教師側の見方が事実であるとするなら、もっぱら三成らに限定して責任を負わせる戦後処理の仕方に意図的なものを感じさせます。 

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