関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1880 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」16

<<   作成日時 : 2017/03/24 10:32   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いについても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。
 「1600年日本年報補遺」の記述は次のようなものです。
 「翌日彼(引用者注 家康)は敵と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様の軍勢へと移っていった。彼らの中には、太閤様の奥方の甥であり、太閤様から筑前の国をもらっていた(小早川)中納言(金吾秀秋)がいた。同時にたいして勢力ある者ではなかったが、他の三名の諸侯が奉行たちの軍勢に対して武器を向けた。奉行たちの軍勢の中には、間もなく裏切行為のため叫喚が起こり、陣列の混乱が叫喚に続いた。同じく毛利(輝元)殿[彼は九ヶ国の国主であった]の軍勢は、合戦場から戦うことなしに退却した。
 こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた」
 こういう記述について、白峰氏の同書では、「特に注目されるのが、開戦と同時に小早川秀秋などが裏切って家康方についたとしている点であ」り、「開戦と同時に小早川秀秋などが裏切ったことにより、石田三成方の軍勢は開戦してから短時間で敗北したことがわかる」と記されています。
 関ヶ原の戦いが石田方が短時間で敗北したということについては、白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)で指摘され、その根拠として、この記述も取り上げられています。宣教師側の史料だけでなく、日本側の一次史料も示されていますが。また拙ブログで何度も記しているように、白峰氏の同書の中で、主戦場は関ヶ原ではなく山中であったことも指摘されています。
 上記の記述では、裏切った者として「他の三名の諸侯」も挙げられていますが、実際は脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四人です。
 「毛利(輝元)殿の軍勢」とあるのは、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊ら南宮山に陣取っていた軍勢のことです。輝元自身は、大坂城から動かず、結局、関ヶ原の敗戦を受けて、家康の要請により、降伏して大坂城を明け渡すことになります。「1600年日本年報補遺」では、大坂城の輝元の態度、関ヶ原の敗戦を聞いた時の様子なども具体的に記されています。
 
 

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