関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1881 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17

<<   作成日時 : 2017/03/25 10:55   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦い前後の毛利輝元の様子についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。
 まず、関ヶ原の戦いの前の毛利輝元についての「1600年日本年報補遺」の記述は次のようなものです。
 「この当時毛利(輝元)殿は(中略)太閤様の財宝と息子(引用者注 豊臣秀頼)をも己が権限の下に置き、そしてすべての諸侯の人質、内府様に味方していた人々の人質に対してさえも権限をもっていたが、このほかに己が諸領国から四万の軍勢をも召集していた。最後に彼は幾年にも及ぶ戦争に必要な食糧その他の必要物質(引用者注 物資ヵ)を豊富に蓄積してあった」などと。
 これらの記述から、白峰氏の同書では、輝元は「大坂城に在城して家康方の軍勢と十分に戦うことができる状態であった」と指摘されています。
 光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)では、輝元が関ヶ原の戦いの際、西国では領土を広げようと活発な動きに出ていたことが具体的に述べられています。「内府ちかひの条々」を出すことによって、石田・毛利連合政権が樹立したというのが白峰氏の見解であり、輝元が西国では連合政権の中心的な存在をしていたことがわかりますが、関ヶ原の敗戦によって、すっかり意欲を失ったことが、「1600年日本年報補遺」に次のように記されています。
 輝元は「味方の軍勢が内府様によって打ち破られたと知るやいなや、非常な驚怖に呆然となり、そしてまったく恐れおののいてしまい、戰さと戦闘を交えることも、また敵の勢力を撃退することさえ考えなかった。また驚くべきことは、彼は中国へ帰ることが容易にできたにもそれもせず、また敵方に対して和平の諸条件を一つも提示せず、すべての側近者といっしょに大坂城を出て城外にある壮麗に建てられた自らの別荘に身を隠し、そこで敵の思うとおりに降伏することを考えた」と。
 このように輝元が政権を投げ出した理由として、白峰氏の同書では、「関ヶ原の敗戦によって、石田三成と安国寺恵瓊を失ったことが大きいと考えられる」、「輝元を反家康の盟主に担ぎ上げた安国寺恵瓊と石田三成を失った時点で、担ぎ手(安国寺恵瓊、石田三成)がいなくなって御輿(毛利輝元)だけの状態になったようなもので、輝元自身には政治的・軍事的にその後の具体的方向性が見えてこなかったのであろう」と指摘されています。
 この見方は妥当なものだと云えるのではないでしょうか。

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