関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1882 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17

<<   作成日時 : 2017/03/26 11:31   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。
 大河ドラマ「真田丸」では明石掃部は明石全登という名前で登場し、大坂の陣での活躍は描かれていましたが、関ヶ原の戦いそのものがほとんど描かれなかったために、当然大坂の陣まで明石は出てきていませんでした。
 白峰氏の同論考では、まず明石掃部について、イエズス会側の史料の記述から「宇喜多秀家の甥にあたり、後に秀家の姉妹と結婚したため秀家の義兄弟になったことがわかる。交友関係では、小西行長とは『非常な親友』であり、黒田長政とも『親友』の関係にあった」と記されています。
 明石掃部について論じられた、大西泰正氏の「明石掃部の基礎的考察」」(「岡山地方史研究」第125号に掲載)を以前拙ブログ記事で紹介したことがありますが、掃部と秀家との関係については、1597年のフロイス書簡に掃部が秀家の義兄弟(姉妹婿)であったという記載があるとの松田毅一氏の先行研究に触れられ、またイエズス会士の報告書をもとに編纂された「1599ー1600年 日本諸国記」にも義兄弟という記載があることを指摘し、掃部が秀家の一族であったと書かれています(拙ブログ2012年1月16日付記事)。
 白峰氏の同論考で、掃部の事績として、「1596年度年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に「太閤の大坂での建築工事のすべてを監督している(明石)掃部殿」という記述があることから、「秀吉の時代の大坂での『建築工事』(大坂城普請か?)の奉行(『監督』)をしていることがわかる」と指摘されています。
 さらにイエズス会側の史料から、掃部は「宇喜多秀家麾下の主要な奉行を務め、知行高は5000石であったことがわかる」と記されています。
 掃部の知行高については、大西氏の同論考に記されていることを拙ブログ2012年1月14日付ブログで紹介しました。た。
 すなわち、「宇喜多氏の分限帳によれば、掃部の知行高は3万3110石であり」、「また分限帳に書き上げられた掃部の与力が明石四郎兵衛一人であると云うのも、数十人から百人超の与力を付けられていた戸川達安や岡越前守などの有力家臣との比較から云えば、はなはだ不自然」で、「掃部の立場が宇喜多氏から半独立の恰好をとることを示すものだ」などと。
 掃部の知行高が5000石というイエズス会側の記述は、少なすぎるのではないでしょうか。
 

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