関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1883 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17

<<   作成日時 : 2017/03/27 10:38   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、昨日付拙ブログ記事の続きです。
 関ヶ原の戦いについては、「1600年日本年報補遺」に掃部は「日本の奉行側の軍(引用者注 石田三成方の軍勢)の第一線で戦っていた人々の指揮者とされたが、合戦の開始にあたり裏切り者の軍勢(引用者注 小早川秀秋などの軍勢)によって置き去りにされたため、自分は敵方の軍勢(引用者注 家康方の軍勢)に取り囲まれているのに気づいた」という記述があり、それに関して、白峰氏の同書では、次のように考察されています。
 「小早川秀秋などの軍勢が開戦と同時に裏切ったが、そのことを明石掃部は事前には全く知らなかったことがわかる。そのために明石掃部は戦場に置き去りにされたのであろう。明石掃部は宇喜多秀家の重臣であったので、宇喜多隊に属して戦ったと考えられるが、開戦と同時に置き去りにされたということは、小早川秀秋などの裏切った軍勢にかなり近い近い位置にいたのか、或いは、予期しなかった小早川秀秋などの裏切りによって宇喜多隊はかなり早い段階(開戦と同時の段階であった可能性が高い)で戦線が崩壊して軍勢がバラバラになった、と考えられる」と。
 その後、掃部は「あらゆる努力をもってただもっとも密集した敵軍の真っ只中で戦いながら、敵の手にかかって殺されようとした。彼はこの決意をもって徒歩のまま一心不乱に戦っていた時、内府様側についていた己が友人の甲斐守(引用者注 黒田長政)に出会った(中略)。(甲斐守)は、彼の助命について内府様と非常に熱心に話し合おうと引き受けた。そして(甲斐守)は馬から下りると、明石掃部がそれを使うことを望み自分は従臣の馬に乗った」と、「1600年日本年報補遺」に記されています。
 こういう記述から、白峰氏の同論考では、「明石掃部はこの時は徒歩で戦っていたが、本来は馬に乗って戦っていたと考えられ、黒田長政も馬に乗って戦っていたことがわかるので、両者ともに戦闘中は馬に乗って戦ったことは明らかである。この点は、合戦の戦闘中に大名(黒田長政)クラスや大名の重臣(明石掃部)クラスの者が馬に乗って戦ったのかどうか、という問題を考えるうえで、馬に乗って戦ったことを明確に示す証左として重要である」と指摘されています。
 イエズス会側の史料では掃部は重臣であったという見方ですが、大西泰正氏の「明石掃部の基礎的考察」(「岡山地方史研究」第125号に掲載)では、掃部は宇喜多家の客分であったという見解が示されています。関ヶ原の戦いで大名クラスや重臣クラスが馬に乗って戦っていたという描き方は、大河ドラマ「葵 徳川三代」でもそうでした。

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