関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1886  中野等氏「石田三成伝」21 毛利輝元と島津義弘の初上洛

<<   作成日時 : 2017/03/30 10:39   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正16年(1588)7月の毛利輝元の初上洛についても触れられています。
 「7月19日に大坂に入り、22日には初めての上洛を果たす。
 輝元の宿所には上京の妙顕寺が充てられ、三成は浅野長吉とともに、秀吉の使者として23日の朝にここを訪れ、米1000石を呈上した。26日には返礼として、太刀一腰と銀子30枚を受けている」と。
 典拠は、「毛利輝元上洛日記」です。この史料について、中野氏の同書には次のようなことが記されています。
 「輝元が諸大名・秀吉の家人衆(けにんしゅう)に充てた進上品の内訳や員数が記述され」、「秀吉家中における位置関係が進物の内容や礼の厚薄に反映するとみてよ」く、「秀吉の家人のなかでは、浅野長吉が最も厚く遇されており、これに前野長康と富田一白(とみたいっぱく)が続き、三成は増田長盛と同等の扱いをうけて彼らに次ぐ」と。
 聚楽行幸の際に、三成が増田長盛と共に、秀吉の直臣の先頭に配されたことといい、三成が家臣の中でも厚遇されていることがわかります。
 中野氏の「毛利輝元の居所と行動(慶長5年9月14日以前)には、輝元の上洛に際して、上記の他、「24日に聚楽訪問、25日参内して従四位下侍従に叙任。28日再び参内、参議に任官する。8月に入ると豊臣氏一族と交歓し、洛中の諸所を訪ねる。この間『於聚楽御屋敷被仰付之候』と、京に屋敷を与えられている」などと記されています。
もっとも、中野氏の「石田三成伝」では、輝元は「7月27日付で正四位下・参議に叙任された」と記されていますが、翌日参内して正式に任官されたということなのでしょうか。
 それはともかく、中野氏の同書では、輝元のこの任官は「上杉景勝と同格の位置づけであ」り、景勝が「正四位下・参議に昇任」されたのは同年5月23日のことだと記されています。景勝二度目の上洛の時のことです。
 天正14年の景勝の初上洛の際は、上杉家の取次だった三成は、景勝・兼続らを迎えに加賀の森本まで出向きますが、2回目の時はそういうことをしていません。
 三成はこの時、島津義弘を出迎えるという役目がありました。そのために5月27日に大坂にいたことが、中野氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)に記されています。中野氏の「石田三成伝」でも「要請を受け5月23日に堺へ着津した島津義弘を応接するため、三成は27日までに堺まで出向いている(『薩藩旧記雑録後編』)」と記されています。三成は島津家との取次もしていましたから、多忙を極めていたわけです。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1886  中野等氏「石田三成伝」21 毛利輝元と島津義弘の初上洛 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる