関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1861 中野氏「石田三成伝」18 九州攻めの際の役割8 義久歓待・秀吉に近侍

<<   作成日時 : 2017/03/04 18:12   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「天正15年(1587)6月25日には、三成は細川幽斎とともに、上洛のため博多まで北上してきた島津義久を訪ね」、「ほどなく義久をともなって西上し、6月29日に下関を経て、7月10日に堺へ到着した」と記されています。
 下関に来た時のことについて、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)には、次のように記されています。 「義久が赤間関(下関)まで来たときは、赤間関城中より出て城の坂に出迎え、人質として海路を先着していた義久の娘『亀寿』と引き会わせている」と。
 亀寿を鹿児島まで人質として受け取りに行ったのは秀吉の意向を受けた三成だということも、白川氏の同書に記されていますし、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも、そのことについて触れました。
 義久が堺に着いた時、及びその後、義久が秀吉に謁見した時のことは、やはり白川氏の同書に次のように記されています。
 「7月10日、堺に到着したときも、三成の配慮により数多くの小船を出させ、義久の船に漕ぎ寄せて、歓待これに努めている。その後、三成の執り成しで、大坂において秀吉と謁見したときも、秀長や三成の斡旋によって秀吉に会っている。秀吉も極めて上機嫌で義久を歓待し、在京中の滞在料として米五千石を与え、そのほか摂津・播磨の内に一万石の所領も与えている」と。
 秀吉はこの後、「9月13日には落成した聚楽へ移徙(いし)する。10月1日からは北野の大茶会が催行されるので、この間は三成も秀吉に近侍していた」と中野氏の同書に記されています。
 三成が秀吉に近侍していたという根拠として挙げられているのは、9月30付の安国寺恵瓊宛の秀吉朱印状にある、「猶、石田治部少輔可申(もうすべく)候也」という記述です。この朱印状は、「肥後で一揆が勃発した」ことを「報じた」ものです。
 秀吉が聚楽第に移った日については、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)に「(9月)13日 京都在」とあり、その典拠として「兼見卿記」の「今日聚楽御移徙也」という記述が挙げられています。
 10月1日の北野の大茶会を秀吉が催したことについても、藤井氏の同書で、その典拠がやはり「兼見卿記」であることが挙げられています。
 三成は九州から戻ってからも、多忙を極めたことがわかります。島津家との取次の役目も務めています。

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