関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1862 「現地探訪 大津から膳所へ」1 大津城外堀跡・中堀跡・本丸跡

<<   作成日時 : 2017/03/06 10:30   >>

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 写真は大津城の外堀石垣とおぼしきところを3月4日に撮ったものです。連続講座「近江の城郭」の第五回の現地探訪で、大津城跡と膳所城跡をめぐって来ましたが、この石垣は当時のものではなく、後で作られたものだと、案内・説明役の滋賀県教育委員会の松下浩氏が語っておられました。
  この日はJR大津駅で12時半に集合し、3時間半にわたって歩きました。
 家康は関ヶ原の戦いの後、秀吉時代に作られた大津城を廃城にして、新たに天下普請で膳所城を築城しました(大津城が低地にあって攻められやすいという弱点があることも原因だと説明されていました)。大津城が歴史的に有名になったのは、関ヶ原の戦いの際、城主だった京極高次が最初は西軍に付きながら、途中で寝返ったため、立花宗茂たち西軍1万5千人が攻め、彼らが関ヶ原の戦いに間に合わず、西軍敗北の要因の一つになったということです。
 まず大津駅から西に歩き、旧東海道を北上して、旧大津宿本陣跡に行きました。そこで大津城についての最初の説明を受けましたが、確かに旧東海道を北上していると、確かに本丸跡に向かって下って行っていることがわかります。大津城が西軍に攻められたのは低地にあったからで、山の上から大砲を浴びせかけられ、結局開城を余儀なくされました。むろん、旧大津宿本陣は江戸時代になって作られたもので、今は説明掲示板しかありません。
  この後、上記の外堀石垣とおぼしきところへ行きましたが、東西に続く商店街を少し入ったところにあります。現地探訪のレジュメに掲載されている、大津市役所作成の「大津城復元図」の外堀の位置に確かにこの石垣はあります。その北側に三の丸、さらに中堀があり、その北が二の丸、内堀、奥二の丸があり、その北が本丸です。
 中堀は二の丸を四角に取り囲む形になっていますが、われわれはこの後、外堀跡の北西の方向にある、中堀跡と思われる川口堀跡へ行きました。川口堀跡は今は公園になっています。その後、北東に当たる本丸跡へと行きました。
 本丸跡には、当時をしのぶものは何も残っていませんが、大津城跡碑が建っています。さきほども紹介したのと同じ「大津城復元図」を描いた碑もセットになっています。上に歩道橋が通っていますが、その北側の港に近いところまでが本丸の範囲であること、歩道橋の南側にあるスカイプラザ浜大津も京阪浜大津駅も本丸の中であり、スカイプラザや浜大津駅は本丸が南の端に当たることを、レジュメに掲載されている「大津城本丸範囲復元図」(大津市教育委員会作成)をもとに説明されていました。
 

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