関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1863 「現地探訪 大津から膳所へ」2 三成が繋がれたいちょうの木・膳所城の遺構

<<   作成日時 : 2017/03/07 21:41   >>

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 写真は和田神社の表門を4日の「近江城郭」の現地探訪の際に撮ったものです。この表門は膳所藩の藩校である遵義堂の表門を移築したものですが、この和田神社には、拙ブログでも以前に紹介したように三成ゆかりのいちょうの木があります。関ヶ原の戦いの後、捕縛された石田三成が大津城に護送される途中、つながれて休憩したと伝わるいちょうの木です。今回の現地探訪の趣旨からは離れるので、この木についての説明はありませんでしたが、いちょうの木との再会は感慨深いものがありました。
 この日の「近江城郭」の現地探訪ですが、大津城の本丸跡から東に歩き、旧東海道をたどり、大津と膳所の境となる境川町(そばにあづま川が流れています。大津の東ということで「あづま」という名前が付いたという説明がありました)を経由して、膳所城下大津口総門跡碑(防御のため道が曲がっています)から南下して、和田神社へ行きました。
 和田神社から東に折れて(旧東海道から外れますが)、膳所城跡公園に行きました。ここにかつては本丸と二の丸がありましたが、ここも当時をしのぶものは何も残っていません。琵琶湖がすぐ前に広がっており、眺望を楽しむことができました。説明によると、築城された当時は本丸と二の丸が分かれており、橋でつながれていましたが、寛文2年の大地震によって大きな被害を受けたので、本丸と二の丸は一体化されました。現地探訪のレジュメに、地震前の膳所城の絵図、膳所城が廃城された時の絵図が合わせて掲載されており、その違いがよくわかりました。
 公園を西に引き返して、膳所神社に行きました。ここには、膳所城の遺構として、三つの門があります。表門は、本丸大手門を移したもので、脇戸付薬医門です。明暦元年の棟札がありますが、それ以前に二度の転用の痕跡があり、一度は膳所城内での移転で、その前は大津城からの移築であったのではないかと考えられているそうです。北門は、表門と似ていますがやや小さく、これも脇戸付薬医門ですが、どの城門を移したのかは不明です。南門は近年建て替えられ復元されたものですが、もともと水門を移したものと伝えられ、これは高麗門です。
 われわれは南門を出て、昔は両側に下級の武家屋敷があった狭い道を南にたどりましたが、武家屋敷であったことを示す塀があちらこちらにあり、当時の雰囲気をしのべました。東へ曲がり、京阪中ノ庄駅を越えて、篠津神社へ行きました。篠津神社の表門は、膳所城の北大手門を移築したもので、脇戸付高麗門です。17世紀中頃の再建と思われ、ここに移されたのは明治4年のことだということが棟札に記されています。鬼瓦・留蓋瓦に安永2年(1773)の銘があるそうです。現地探訪は篠津神社で解散となりましたが、午後4時になっていました。
 
 

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