関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1864 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」1 尾下成敏氏の講演1 近江の徳川領

<<   作成日時 : 2017/03/08 10:53   >>

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 5日にピアザ淡海で開かれた「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」を聴きに行きました。二日続いての大津行きになります。10時半から休憩をはさんで午後4時半まで開かれましたが、密度濃い内容でしたし、新たな知見がいろいろと得られました。基調講演と報告が三つ、その後パネル・ディスカッションがありました。
 基調講演は尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」でした。尾下氏の「上杉景勝の居所と行動」(藤井讓治氏の『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)の記述などは、拙ブログでたびだび取り上げさせてもらっていますが、尾下氏のご尊顔を拝するのは初めてのことです。
 尾下氏の講演で、一番注目したのは、豊臣政権の家康について、徳川が豊臣を支える存在であったこと(両者の間に緊張関係が全くなかったわけではないとはことわっておられましたが)、近江に徳川領が9万石あったこと(近江国全体は77万石でしたから、いかに徳川領が多かったということがわかると説明されていました)です。
 豊臣と徳川の関係の展開については、年表を使って詳しく述べられていました。残念ながら、家康と三成の関係については言及がありませんでしたが、家康が豊臣を支える存在であるとするなら、三成も家康に警戒心を持ちながらも、家康と対立関係は関ヶ原の戦いの直前までなかったという可能性もあります。
 天正12年(1584)、秀吉は家康・織田信雄と小牧・長久手で戦いますが、実際の戦いは、愛知県だけでなく、岐阜県南部、三重県で戦われたということが指摘されていました。11月に合戦は終結し、家康は秀吉に対して、二男義伊(後の結城秀康)を秀吉の養子として差し出しますが、実質的に秀吉の人質だったと述べられていました。
 この後、秀吉と家康は何重もの縁戚関係で結ばれますが、具体的には、天正14年5月に家康は秀吉の妹・朝日と婚礼を挙げたこと、天正18年1月に家康の嫡子の長丸(後の秀忠)が秀吉の養女小姫(織田信雄の娘)と祝言を挙げたこと(小姫は翌年に逝去)、文禄4年(1595)9月に秀忠が秀吉の養女の江(浅井長政の娘)と婚礼を挙げたこと、慶長3年(1598)8月、秀吉が逝去する前、秀忠の長女の千姫が秀頼と婚約したことが挙げられていました。
 秀忠と小姫との祝言については、福田千鶴氏の「徳川秀忠」(新人物往来社)の中で、秀忠は「21日に小姫との婚約式を挙げた」ため、朝日が14日に「京都聚楽で没した」が、「公家の間ではその死が23日まで秘匿された」のは、秀忠が「小姫との祝言を無事に終えるため」だったと指摘されています。「婚約式」と「祝言」の語が混在していますが、当時秀忠は12歳、小姫は6歳なので、形だけの祝言でした。
 

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