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zoom RSS 石田三成の実像1887  中野等氏「石田三成伝」22 三成の島津家指南1

<<   作成日時 : 2017/04/01 11:10   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館には、三成が取次として島津家の指南的役割を果たしたことが具体的に記されています。天正15年(1587)の九州攻めでは、三成は降伏した島津家の人質として亀寿姫の受け取りに行ったり、当主であった島津義久の上洛に際して、同行し歓待したりしています。
 中野氏の同書では、翌16年4月23日付の島津家家臣の新納忠元に充てた細川幽斎・三成連署状が取り上げられ、「新納忠元書状に対する返書であ」り、「内容は肥後一揆の平定を祝し、島津義弘の上洛を促すものである」と記されています。
 また「5月3日付の島津義弘充て秀吉朱印状や同5日付の島津義久充て朱印状は、いずれも端午の祝儀に関わるが、それぞれ文書の書き留めには三成の名がみえる」こと、「さらに、5月11日の長岡玄旨(細川幽斎)の新納忠元充て書状にも『石治少令相談(そうだんせしめ)』という文言がみられる。在京する三成は、引き続き幽斎とともに、島津氏に関わっていた」と指摘されています。
 この後、「5月23日に堺へ着津した島津義弘を応接するため、三成は5月27日までに堺まで出向いている」。義弘は6月「4日に秀吉への拝謁を果たし」、「従五位下・侍従に叙任され、さらに従四位下に叙位され、豊臣姓・羽柴苗字を許される」が、その理由として兄の「義久はすでに法体となり」、「『侍従』への任官は困難であったが、国持ちの大名として『侍従』へ任官し、『豊臣』姓・『羽柴』苗字を使用させることは、地域支配の正統性付与の点からもと必要され」たためであったと記されています。
 もっとも、矢部健太郎氏の見解では、義弘は「公家成」大名となったものの、「清華成」大名の家康、上杉景勝、毛利輝元などとは一線を画されていました。この大名序列は、摂関家大名の「豊臣宗家」の下に、「清華成」大名、「公家成」大名、「諸太夫成」大名という順番であり、三成たち秀吉の直臣は「諸太夫」大名でした。
 中野氏の同書では、8月10日付の義久宛の三成書状の原文と現代語訳が掲載されていますが、「摂津国能勢郡・豊嶋(てしま)郡・播磨国揖東(いっとう)郡・揖西(いっさい)郡・神東(じんとう)郡に設定された島津領」に関するもので、これらは島津家に与えられた「在京賄料(まかないりょう)」であり、「一万石の領知」でした。
 この書状の内容に関して、次のように説明されています。
 「三成は安宅(秀安)に、新たに島津領となる村々の詳細を伝えさせたようである。領知の打ち渡しに際して、三成はまず播磨領の踏査を命じている。播磨には3000石程度の領知が設定されるが、3郡に点在しており、打ち渡しにも余計に手間がかかるものと危惧された。一方の摂津国能勢郡には5000石を超える領知があったが、こちらは一円領であり、所務も容易であるとの判断もあった。播磨・摂津の島津家在京賄料は、元来政権の直轄地であったと考えられ、打ち渡しに際しては三成の細やかな配慮があったのである」と。
  

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