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zoom RSS 石田三成の実像1893  中野等氏「石田三成伝」28 蘆名家の奏者

<<   作成日時 : 2017/04/11 11:47   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が蘆名(あしな)家・佐竹家の奏者として活躍していることも取り上げられています。
 それに関して、天正17年(1589)3月24日付の蘆名家宿老の富田氏実宛の三成書状が掲載されていますが、その内容について、「金上盛備(かながみもりはる)の上洛をうけ、三成は蘆名義広(佐竹義重次男、義宣弟)自身がすみやかに上洛する様に求めている」と記されています。
 中野氏の同書では、金上盛備は蘆名義広の家臣であり、天正16年末に「上洛し、秀吉に誼を通じ」、「会津に戻った金上盛備から、上方での歓待振りを知らされた蘆名家宿老の富田氏実に、早速石田三成に礼状を送ったようで」、上記の「三成書状が、さらにその返書である」と説明されています。
 さらに、この「三成書状と同日付で、内容的にも重複する連署状が富田氏実・平田氏範(左京亮)ら蘆名家の重臣に充てて発給されている」ことも記されており、その連署状も掲載されています。
 その連署状には、発給者として「徳芳」と「清源」の名が記されていますが、「三成の家来かそれに準ずる者と考えられる」と推定されています。その根拠として、「増田長盛には殿付けがあるにも拘わらず、三成は『治部少輔』とのみあって敬称が無い」ことが挙げられています。
 また三成書状にもこの連署状にも文面に「一丹斎」「寺田織部」「潜斎」という名も記されていますが、「徳芳」と「清源」と「同様の立場にあるものであろう」と指摘されています。その根拠として、「大宝寺義勝上洛日記」に「進物の贈与先として『一、寺田織部助殿へ白布拾端、馬一疋、是ハ石治殿ノ小奏者』と記されていることが挙げられています。
 もっとも、安藤英男氏・斎藤司氏の「石田三成家臣団事典」(安藤氏編『石田三成のすべて』【新人物往来社】所載)の中には、上記の書状に名が載っている彼らに相当する人物は見当たりません。彼らがどういう人物なのかは今のところ判然とせず、今後の研究課題と思われます。
 蘆名義広の実家である佐竹氏は、もっと早い段階から秀吉に接近していたことも、中野氏の同書で述べられています。すなわち、天正12年3月26日付の佐竹氏宛の秀吉書状の書き出しに、「近日者不申承(もうしうけたまわらず)候」とあることから、「両者の交渉開始がさらに遡ることがわかる」と指摘されています。4月朔日付の上杉景勝充ての佐竹義重書状に、「軍事行動は何より秀吉の指示を得るべきだとし、義重も秀吉とは親密(『無二』)な関係にあるので、万一の場合にも安心するように、と書き送っている」ことが記されています。

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