関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1894  中野等氏「石田三成伝」29 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して1

<<   作成日時 : 2017/04/12 11:05   >>

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 昨夜の関西テレビの「ちゃちゃ入れマンデー」の中で、滋賀県が一押しする戦国武将として石田三成が取り上げられ、三成のCMも流されていました。もっとも、滋賀県では三成のことはあまり知られていないとして、数人の街頭インタビューも流されていましたが、確かに知名度は地元ではそれほど高くないのかもしれませんが、編集に意図的なものを感じました。この番組は出演者が言いたいことを言い合う場面が好きで、毎回見ているのですが。
 さて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達政宗が会津蘆名領に侵攻した時点における三成の動向についても触れられています。
 6月5日に伊達勢と蘆名勢との戦いが摺上原(すりあげはら)で行われ、蘆名勢は大敗し、常陸に逃れます。この知らせが6月中に京に届いていることを示すものとして、7月朔日付で蘆名家の金上盛実に充てた素休・徳子・潜斎連署状が取り上げられています。
 この「素休・徳子・潜斎」について、「会津旧事雑考」の編者は「素休等三人者、可石田カ臣(石田が臣たるべし)と注記を施していることが記され、中野氏の同書でも、この三人は「石田家の家中かそれに準じる性格のものであろうと類推し」、「皆このような号あるいは法名のような署名をのこしている」ことから、「使僧のような存在であろうか」と推定されています。
 この連署状に、三成の名も記されていますが、その部分は次のような文面です。
 「そちらの備えが大変とのことで、格別に石田三成(治部少輔)が配慮され、越後(上杉氏)にも事情を伝えられました。越後からの支援がありますので油断なく支えてください」
 「そちらの状況を知らせるため、確実な使者をたて石田三成(治部少輔)への連絡をお願いします」
 「(秀吉の)耳にも入っておりますが、きっと伊達が悪いと仰ると思いますので、本懐までは時間もかからないでしょう。しばらくの間、油断なく防御に努められ、抜かりないようにつとめられるのがよいと思います。石田三成が苦心していることは、日本中の神々に対しても偽りではありません。きっと混乱されているとは思いますが、この間の様子について使者をたてて(三成に)仰るのがよろしいかと思います。お返事よろしくお願いします」などと。
 この連署状の宛名の金上盛実は「摺上原で討ち死にした金上盛備」の父です。この連署状の内容の解説として、「何らかのかたちで、三成の意向を踏まえたものとみてよい。ここで、上杉景勝が蘆名方を支えるであろうことが述べられている。武藤(大宝寺)千勝丸の上洛によって、出羽庄内問題もほどなく決着がつくと想定されるのであろうか。いずれにせよ、秀吉が状況を聞けば、伊達政宗の側に非のあることは自明なので、安心して持ちこたえるように述べている」と記されています。
 千勝丸は前述したように、上杉家臣の本庄繁長の子であり、出羽庄内の武藤家に入ったため、最上家との対立が起こります。千勝丸が上洛したのは6月28日のことであり、この連署状が発せられる直前のことでした。三成は上杉家、蘆名家の取次、奏者であることがよくわかる書状ですが、この4日後に三成自身が書状を発しています。

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