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zoom RSS 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」2 朝鮮出兵1

<<   作成日時 : 2017/04/14 10:45   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、「(引用者注 秀吉)は非常に信頼を厚くしていた諸侯四名を指名し」、「彼らを新王国(引用者注 中国大陸における新しい征服地を指すと考えられる)の主君にすることを望んだので、皆の者は大いに驚いた」という記載があり、その四名とは、キリシタンの小西行長、黒田長政、異教徒の加藤清正、毛利吉成であることが述べられています。
 この史料には、清正は行長の「不倶戴天の敵」、吉成は長政の「敵」であると記されており、こういうことから、「肥後国と豊後国はそれぞれ秀吉子飼いの武将により治められていたが、両国内では相互の部将が敵対する状況であったことがわかる」、「秀吉がこの4人の子飼い部将を若手のホープ(天正20年[1592]の時点で、加藤清正は31歳、小西行長は35歳、黒田長政は25歳、毛利吉成は年齢不詳)として期待するとともに、互いに牽制させて切磋琢磨させようとしたと思われる」と白峰氏の同論考で指摘されています。
 イエズス会側の史料では、清正は行長の「不倶戴天の敵」と記され、二人は不仲であったと一般の人もそれを信じているふしがありますが(清正と三成が不仲であったということもそうです)、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、秀吉が二人が協力して肥後統治に当たるように命じていること、二人は共同して天草五人衆の鎮圧にあたっていることなどが述べられ、不仲説に否定的な見解が示されています。もっとも、その後の朝鮮出兵時に二人の間に確執が生まれたことが指摘されていますが。
 長政と吉成は共に豊後の国を治めていますが、イエズス会の史料で指摘されているように、不仲であったとする根拠が他にもあるのでしょうか。
 吉成の年齢については、今福匡氏の「真田より活躍した男 毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、天正6年(1578)誕生説が採られていますから、それに従えば、天正20年には、15歳になります。
 イエズス会の史料に記されていたように、秀吉が行長、清正、長政、吉成を「新王国の主君にすることを望んだ」ということが事実であるかどうかについては、日本側の史料にそういう記述があるのかどうか、検討の余地があります。
 文禄の役において、行長は一番隊、清正は二番隊、長政は三番隊、吉成は四番隊にいました。日本側は5月3日に漢城に入りますが、その後、秀吉が5月13日付、次いで6月3日付で、長政と吉成に対して書状を発して、指示を出していることが、今福氏の同書に記されています。

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