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zoom RSS 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」3 朝鮮出兵2

<<   作成日時 : 2017/04/15 21:28   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、「諸侯四名を新王国の主君にすることを望」み、その四名とは、キリシタンの小西行長、黒田長政、異教徒の加藤清正、毛利吉成であることが述べられていると昨日付の拙ブログ記事で取り上げました。これに関して、今福匡氏の「真田より活躍した男 毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、秀吉が天正20年(1592)5月13日付、次いで6月3日付で、長政と吉成に対して書状を発して、指示を出していることが記されていることにも触れましたが、その具体的内容は次のようなものです。
 まず5月13日付の書状ですが、「秀吉は黒田長政、毛利吉政の両名に朱印状を発し、占領した敵城に人数を入れ置くことや、秀吉自身の渡海のために船を差し戻すよう指示している(『黒田家文書』)」と記されています。
 次いで6月3日付の書状ですが、「長政・吉成の両名に対して、兵糧請取に関する指示を下し、高麗から大明国境までの『つなぎの城々普請』を命じている(『薩藩旧記雑録後編』)」と記されています。
 今福氏の見解によれば、この時、吉成は15歳ですから、いかに秀吉に信頼されていたかがよくわかります。イエズス会の史料に記されていたように、秀吉が行長、清正、長政、吉成を「新王国の主君にすることを望んだ」ということが事実であるかどうかは、よくわかりませんが、秀吉が彼らに期待をかけていたのは確かです。
 イエズス会側の史料では、文禄の役における総兵力数について、「かの四名の大将(引用者注 加藤清正、小西行長、黒田長政、毛利吉成)に率いられた将兵を除いても、総勢二十万はいた」、「名簿によって判った総勢は三十万で、その中の将兵は二十万であった」などという記載から、白峰氏の同論考では、次のようにまとめられています。
 「戦闘員(将兵)の人数は4名の部将(加藤清正、小西行長、黒田長政、毛利吉成)の兵力数以外に20万人、そのほかに非戦闘員(将兵以外)は10万人であり、それらを合計した概数で30万人ということになる」と。
 このことに関して、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)には、天正20年3月13日付「陣立書」の軍団構成が表にして載っていますが、一番隊から九番隊の合計数が158700人と記されています。この表には船奉行の名も三成も含めて13名記されていますが、その兵力数は載っていません。
 もっとも、この表には上記の清正・行長ら4名の兵力数も記され、その数も含まれていますから、その数(行長7000人、清正1万人、長政5000人、吉成2000人)を引くと、合計数は134700人になります。渡海せずそのまま名護屋城で待機している諸大名も少なくありませんでしたから、20万人余りというイエズス会側が示している兵力数は多くはないのかもしれません。なお、白峰氏の同論考には、中野氏の「文禄・慶長の役」に掲載されている「陣立書」も取り上げられ、イエズス会側の史料と比較されています。
 

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