関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1897 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」4

<<   作成日時 : 2017/04/17 10:18   >>

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 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられています。
 まず慶長4年、家康が秀吉の遺命を無視して諸大名と婚姻関係を結んだ時に、三成たち四大老五奉行が使者を派遣して家康を詰問した時に、家康は「己が諸国から三万の軍勢を召集し、これによって敵方の力に対してなしえた最大の兵力をもって固めた」という「イエズス会報告集」の記載について、白峰氏の同論考では、「家康の領国からの最大動員兵力数が3万という点は、翌年の関ヶ原の戦いにおける家康の領国からの動員可能な兵力数を考慮するうえで重要である」と指摘されています。
 「イエズス会日本報告集」にあるように、実際に家康が「3万の軍勢を召集し」ていたかどうかはわかりません。家康側と三成側との騒動は、「2月にまで及んでいた可能性が指摘できよう」と記される一方、「1月20日にはほぼ決着をした」という「言経卿記」の慶長4年1月24日条の記述、「伏見の騒動が収まった」という「義演准后日記」の2月2日条の記述も紹介されています。ただ大河ドラマ「真田丸」で描かれていたように、「慶長4年の正月中旬に三成が家康を滅亡させる企てをおこし」、「大谷吉継(刑部少輔)までが家康側に荷担したため、三成の企ても潰えた」とする「当代記」の記述は、「史実として採用するには問題をのこす」と指摘されています。このことは他の史料には記載がなく、創作の疑いが濃いと私も思っています、拙ブログ記事でも前述しました。
 また慶長4年閏3月に、七将による石田三成襲撃事件の際、三成は「(引用者注 大坂)城から遠くない(引用者注 石田三成の大坂)邸にいて、六千の武装した軍勢に護られながら夜を過ごしていた」という「イエズス会日本報告集」の記述について、白峰氏の同論考で、「石田三成の6000という兵力数は翌年の関ヶ原の戦いにおける三成の兵力数ともほぼ一致する」と記されています。
 ここで「大坂邸」とあるのは、大坂城の北東にあった備前島の屋敷です。関ヶ原の戦いにおける三成の兵力数に関しては、「イエズス会日本報告集」に「治部少輔が六千ないし七千の兵を率いて、尾張に攻め入ろうと、今か今かと待機していた」、「治部少輔が六、七千の軍勢を率いて同国(引用者注 美濃国)の中に毎時大勢を待機させておいて」という記述があることも白峰氏の同書で示されています。
 これらのことについて、真田家に残る文書に、慶長5年8月5日頃の時点における石田・毛利方の諸将と動員人数(白峰氏「新『関ヶ原合戦』論」【新人物ブックス】にも所収)には、「石田三成6700人」と記されていますし、白峰氏の同論考でも取り上げられていますが、三成の兵力数について真田家に残る文書の記述と近似していると白峰氏の同書で指摘されています。
 
 

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