関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1898  中野等氏「石田三成伝」31 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して3

<<   作成日時 : 2017/04/18 10:41   >>

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中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達政宗が会津蘆名領に侵攻した時点における三成の動向についても触れられていますが、その続きです。
中野氏の同論考では、7月26日付の蘆名義広の家臣である金上盛実宛の三成書状が取り上げられています。その書状の冒頭に「去る6日付の書状が、本日26日に到着しました」とあり、盛実書状の返書であることがわかります。さらに「このたびのお父上の討ち死は、まったく思いがけないことで、(その無念さは)手紙に書ききれません。とはいえ、(蘆名)義広殿に対する忠節は、ひとつは豊臣家に対するご奉公、ひとつにはその勲功として、国中に知れ渡ることになりました」と記されており、摺上原で、盛実の父親の盛備が戦死したことに、哀悼の意を表すとともにその勲功を称えています。中野氏の同書に記されているように、7月1日付の盛実宛ての三成の家臣と思われる者たち3人の連署状に、哀悼の意が表されていましたが、三成自身が書状にそのことを書いたのは、これが初めてだったことがわかります。
 三成はそのあと、次のように記しています。
 「以前、お父上が私の口添えに拠って、越国(上杉)との盟約を結ばれたことは事実です。(したがって)景勝殿を頼られるのも仕方のないことだと思いますが、義広殿に従わないのは問題です」と。
 このことについて、中野氏の同書には次のように解説されています。
 「金上盛備が、すでに三成と交誼を結び、蘆名氏が上杉景勝を後ろ盾とすべきことが定められていたのがわかる。既述のように、金上盛備は天正16年(1588)の冬に上洛しており、三成とも親しく接したのであろう。ところで、当時、金上盛備は蘆名義広と離れて越後の津川城(狐戻城)に拠っていたが、三成は、盛実が義広と別行動をとることを非難し、合流を促している」と。
 政宗の蘆名領侵攻が、豊臣政権の東国政策の変更を余儀なくさせたことについても、中野氏の同書には記されています。すなわち、「徳川家康に東国の『惣無事』を担わせ」、「徳川家に東国の仕置きを委ねてきた」が、「秀吉は直臣富田一白を関東に派遣し、状況を検分させることに決定した」と。
 また9月28日付の上杉景勝充ての秀吉直書が、中野氏の同書で取り上げられ、「伊達政宗が上意に従うと表明したことを諒としつつ、会津から退かないなら派兵する用意があることを述べており、秀吉の立場は上杉景勝や蘆名・佐竹領に傾いていたことがわかる」と指摘されています。
 この秀吉の東国政策の方針転換が、ひいては翌年の北条攻めにもつながるわけです。

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