関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1899  中野等氏「石田三成伝」32 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して4

<<   作成日時 : 2017/04/20 09:15   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して、三成が蘆名家のために尽力してきたことが記されていますが、結局、これは実を結びませんでした。
 そのことについて、その経緯も含めて、中野氏の同書には次のように記されています。
 「政宗は恭順を装いつつ、三成らに支持され越後国内の津川城に拠っていた金上盛実を9月中に降し、攻勢を続けることになる。蘆名家重臣金上盛実が一転して政宗に降伏し、伊達家に服従するという事態に至ったことで、これまで盛実を支持してきた上杉景勝や三成の面目はつぶされてしまう。彼らの政宗に対する怒りはいかばかりであったろう」と。
 伊達政宗のこの前後の攻勢については、福田千鶴氏の「伊達政宗の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)で具体的に次のように記されています。
 「(天正)17年は黒川・大崎両氏を麾下に属させて、5月から6月にかけて相馬・葦名攻略を進めて駒ケ峯城・新地簑頸山城を落とし、6月11日に黒川城に入った。政宗の勢力が拡大する一方で、7月には豊臣秀吉が上杉・佐竹氏に政宗討伐を命じ、同月に政宗は白川氏を麾下に属させた。10月26日には須賀川城を落として二階堂氏を滅亡させ、11月に岩城氏と講和して12月1日に黒川城に帰った」と。
 齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」(中公新書)には、秀吉はすでに天正15年5月の段階で、北関東の佐野家・結城晴朝・塩谷義綱・白川義親・佐竹義重に対して停戦令、すなわち「惣無事令」を命じ、奥羽に対しても蘆名・伊達・田村三家に関わる「和睦」、「惣無事令」の伝達を行なったことが記されています。齋藤氏の同書では、同年5月25日付の塩谷義綱宛の秀吉朱印状が取り上げられていますが、その書状の書き留めに「増田長盛と石田三成が申し添える」と記されています。白川義親にも同日付で同内容の書状があることも記されていますが、三成が北関東や東北の武将の取次を務めていたことがわかります。
 政宗の侵攻は、「惣無事令」違反になるわけですが、政宗も秀吉に対して何の手を打たなかったわけではありません。中野氏の「石田三成伝」には、次のようなことが記されています。
 「前田利家・施薬院全宗・富田一白らの書状によって上方の反応を承知した伊達政宗は、8月16日、さっそくに弁明の使者として遠藤不入斎(下総入道)を上洛させる」が、「遠藤不入斎なる人物も、弁明の使者としては適正を欠いたようであり、秀吉側近の和久宗是(わくそうぜ)は、伊達家家中の上郡山(かみこおりやま)仲為(右近丞)に対して、彼の働きをなじる書状を発している」と。

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