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zoom RSS 三成の実像1900 中野氏「石田三成伝」33 伊達政宗の会津蘆名領侵攻5 齋藤氏「戦国時代の終焉」

<<   作成日時 : 2017/04/21 10:41   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年の伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して、三成が蘆名家家臣の金上兼実に書状を送るなど、対応に追われていることが記されています。政宗は秀吉に使者を送りながらも、攻勢はやめませんでしたが、その背景として、政宗は「その後も佐竹氏を共通の敵とする小田原北条氏との紐帯は強まる傾向にあった」と中野氏の同書に記されています。政宗は北条氏との結びつきを強め、北条氏の存在を頼りにして、奥羽での攻勢を強めたものと思われます。しかし、秀吉がこの後、北条攻めを決定し、それを実行に移したことによって、政宗も態度を改める必要性が生じ、それが政宗の小田原参陣につながるわけです。
 ところで、この時期、三成は北関東の諸将との取次として彼らに書状を発するなど、多忙を極めていますが、齋藤慎一氏の「戦国時代の終焉」(中公新書)には、「天正17(1589)年3月頃、宇都宮国綱は『上洛する』と豊臣秀吉に連絡し」、それに「返書する石田三成は早急の上洛を求めている」と記されています。
 この返書の内容は、2011年6月26日付拙ブログ記事でも取り上げたことがありますが、次のような内容でした。
 齋藤氏の同書では、その返書で注目すべき点を3点挙げられています。まず、北条氏がたとえ宇都宮の上洛を阻止するため宇都宮攻めを行ったとしても、宇都宮氏が上洛を果たせば、豊臣家によって最終的に領土が保全されると三成は書いており、北条氏による私戦はありえず、北条領国が豊臣政権によって包摂されたことを明確に表現していることが指摘されています。
 次に、宇都宮氏の上洛が遅れる間に、北条氏照が先に上洛し虚偽を含めてさまざまな申告をして、承認を得たならば、宇都宮氏のためにならず一刻も早い上洛を促していると三成が書いていることについて、宇都宮国綱がもっとも嫌う北条氏照の名を出している点に注目されています。
 氏照は北条氏の中で、沼尻の合戦の際にも主体的に行動した人物であり、下野方面の軍事行動を担当しました。宇都宮攻めを画策した氏照が上洛した場合、宇都宮氏のためにならないことは確実であり、氏照の名を挙げることは脅しに近く、国綱は焦ったに違いないと、齋藤氏の同書で述べられいます。
 3点目は上洛に際しての進上物などの準備は無用なので、万事をなげうってまずは上洛することが第一だと三成は書いていることについて、負担の軽減を記していることが重要であり、進上物不要の明示は上洛のハードルを下げる実質的な意味合いを持ったに違いないと指摘されています。いかに上洛に巨額の費用がかかったかについて、天正16年に上洛した北条氏規の全体経費が銭2万貫文だったことを齋藤氏の同書で記されています。
 ちなみに、「沼尻の合戦」とは、天正12年に起こった北条氏と佐竹義重・宇都宮国綱の戦いです。  

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