関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1888  中野等氏「石田三成伝」23 三成の島津家指南2

<<   作成日時 : 2017/04/03 10:30   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成の島津家指南について具体的に述べられていますが、その続きです。
 天正16年(1588)8月12日付の三成・長岡玄旨(細川幽斎)充ての島津義久・義弘連署状の中で、「日向南郷(なんごう)を伊東氏に与えられると島津の領国支配に大きな支障を来すため、従前どおり伊集院幸侃に領知させるよう、取りなしを依頼している」と記されていることが取り上げられています。
 このことに関して、「日向国内の島津領はかねてからの懸案であり、6月20日付の上井(うわい)秀秋書状には、日向国の図田帳(一国単位の土地台帳)のことで事前に三成に相談する、という件がみえていた」と説明されています。
 「9月になると、義久・伊集院幸侃らが薩摩に戻る」ものの、「三成はその後も上方に留まる義弘と、さまざまな交渉を続けている。この間の事情については、三成が島津家を政権下の大名として教導していく上で、兄の義久よりも弟の義弘さんのほうが相応であると、判断したようにも思われる」と記されています。
 オンライン三成編「三成伝説」(サンライズ出版)の中で、義久の帰国について、次のように記しました。
 「義久は京にずっととどまっていたが、三成や豊臣秀長、細川幽斎たちの尽力によって亀寿姫とともに帰国することができた。堺で帰国の途につく義久一行を接待したのは三成の父の正継である。義久は8月27日、感謝の気持ちを表した起請文を三成と幽斎に送っている」と。
 このことは、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で記されており、それに基づいて記しました。
 義弘と義久と三成の関係については、「三成伝説」の中で、次のように記しました。
 「島津義弘は豊臣政権に奉公することが島津家の生きる道だと心得、取次役の三成に近づき、軍役や内政に関するさまざまな指南を受け、伊集院幸侃もそれに協力していたが、義久の方は豊臣政権とは距離を置いており、それが関ヶ原の戦いにまで影響を与えることになる」と。
 この点は、桐野作人氏の見解などを参考にしました。
 中野氏の同書には、琉球問題に関しても、三成が義弘にしばしば申し入れをしており、そのことを示すものとして、島津家家臣の伊地知(いじち)重秀に充てた義弘書状が取り上げられています。その書状の中で、「琉球派遣の御使者については不手際は許されません。断固として(使者を)下す様にしばしば石田三成(治部少輔)が仰っていますので、このように(あらためて指示を)行ないます」などと。

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