関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1889  中野等氏「石田三成伝」24 三成の島津家指南3

<<   作成日時 : 2017/04/05 10:27   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、琉球問題に関して、天正16年(1588)11月22日付の島津家家臣の伊地知(いじち)重秀に充てた義弘書状が取り上げられていることは前述しましたが、その書状の中で、こういう記述もあります。
 「詳しい指示は三成が書状をくだすでしょうし、白浜次郎左衛門が三成から直々に話を聞くことになっていますので、ここで詳しいことは言いません」と。
 琉球派遣の御使者については不手際は許されません。断固として(使者を)下す様にしばしば石田三成(治部少輔)が仰っていますので、このように(あらためて指示を)行ないます」などと。
 中野氏の同書では、「琉球に対する使節派遣要求とは、島津家を仲介にした琉球国王への服属要求である。対馬宗氏に朝鮮国王の来日を促したことと、軌を一にすると考えてよい。この件については、上方で三成と島津家中の白浜次郎左衛門とが直談、とある。ここで三成が琉球政策についての具体案を提示し、白浜と相談の上で島津の国許に指示が寄せられることになる」と解説されています。
 三成と琉球とのその後の関係については、白川亨氏の「石田三成の生涯」(サンライズ出版)の中で、次のように記されています。
 「天正17年9月24日に、琉球王・尚寧の使節として入貢に参じた天寧寺の僧侶・桃庵に対しても、石田三成は細川幽斎とともに接待し、琉球王に対する返書を桃庵に託している」と。
 三成と幽斎が桃庵を接待しているのは、二人が島津家の取次であったからです。
 中野氏の同書では、天正17年1月21日付で島津義弘に充てた幽斎・三成連署状についても取り上げられていますが、その内容は「巣鷹(巣にいる鷹のひな)の徴発、琉球問題への対処、造営中の東山大仏殿(方広寺)への用材調達、刀狩り、勘合(対明交易)、賊船の取り締まり、など」だと記されています。
 このうち、「琉球問題や勘合問題は、島津家に特有の政治課題」であ」り、「三成が堺奉行の履歴を有していたことは、対島津政策に関わる上で、非常に大きな前提であったことがわかる」と説明されています。
 三成が堺奉行を退いたのは天正16年の年末だという、今井林太郎氏の先行研究があることも紹介されています。このことは、今井氏の「石田三成」(吉川弘文館)に記されていることで、今井氏の同書では、さらに三成は「天正15年の九州征伐には秀吉に従って西下したりしたので、三成の父正継が三成の代官として、堺にあって実際の政務をみた」こと、「三成の兄の正澄が文禄2年(1593)から慶長4年(1596)まで6年間堺の奉行を務めていた」ことも記されています。もっとも、堺奉行の在職期間が、どういう典拠に基づいているのかは記されていないのですが。

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