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三成の実像1905 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」7
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いと並行して九州で行われた、黒田如水と大友義統が戦った石垣原合戦の際の兵力数についても記され、考察が加えられています。  まず黒田如水については、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」から、「黒田如水は長政に領国を譲ったあとも、長政の不在時には、依然として豊前の『国主』であり、如水が出陣した際の8000の兵力は黒田家の家臣であったことになる。よって、黒... ...続きを見る

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2017/04/27 11:55
三成の実像1904 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」6
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられていますが、その続きです。  白峰氏の同論考では、「反家康としての石田三成・毛利輝元方の総動員数については、『多数の諸侯はただちに軍兵を率いて大坂の政庁(引用者注 大坂城)に集結した。その数はわずかの間に十万を超えた。』(Tー3、248頁)と記されていて、反家康方の軍事動員が成功して10万を超... ...続きを見る

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2017/04/26 15:44
大河ドラマ探訪471 「おんな城主 直虎」1 迫力不足・男だったとする新史料
 大河ドラマ「おんな城主 直虎」は毎回見ていますが、もう一つ迫力に欠けているのが難点ではないでしょうか。井伊家の話が中心ですから、壮大さがないのは致し方ないとは云え、最初の山場であるはずの桶狭間の戦いでも、歴史的な事件であるのにかかわらず、ダイナミックなところがありませんでしたし、今川義元が殺される場面もパスされましたし、信長も登場せず、失望しました。  最初は子役を使い、幼馴染のヒロイン、おとわ(井伊直盛の娘)と亀之丞、鶴丸とをうまく絡ませ、まるで韓国ドラマを見ているような雰囲気でした。亀之... ...続きを見る

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2017/04/25 12:17
石田三成の実像1903 中野等氏「石田三成伝」35  検地に関与2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)のものと推定される10月16日付の江州伊香郡富長庄の百姓に充てた三成・増田長盛連署状が取り上げられています。これは「裁許状」であり、その最初に「富永郷の給人の年貢の納め様について、あってはならないもめ事があって混乱が生じている旨、御訴訟があったので、以前からの御法度の要諦を田中吉政(兵部大輔)方へも先度申し遣わしている」と記されています。  このことに関して、中野氏の同書には、「訴えがあった近江国伊香郡富長庄は当時秀次領であ... ...続きを見る

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2017/04/24 16:31
石田三成の実像1902 中野等氏「石田三成伝」34  検地に関与1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正17年(1589)10月1日付で秀吉が三成と大谷吉継に充てた「検地御掟条々」が取り上げられ、「美濃国での検地実施に関わるものだ」と推定されています。  その根拠として、「この年には山城国と美濃国での検地の実施が確認されるが、秀吉は美濃国検地を想定して同じ日付で同内容の『条々』を片桐貞隆(主膳正)と石田正澄(木工頭)にも充てている」点が挙げられています。  この「条々」の内容について、中野氏の同書には、「300歩(すなわち1反)を基準面積としつつ... ...続きを見る

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2017/04/23 11:07
三成の実像1901 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」5
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられていますが、その続きです。  関ヶ原の戦いの直前における毛利秀元の兵力数について、「彼らは(引用者注 毛利秀元の軍勢)はそこでおよそ一万二千人くらいが城塞(引用者注 松尾山城ヵ)を修復し、出陣の準備をしていたと「イエズス会日本報告集」に記されており、「石田三成の人数書き立てにおいて、毛利秀就(... ...続きを見る

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2017/04/22 10:36
三成の実像1900 中野氏「石田三成伝」33 伊達政宗の会津蘆名領侵攻5 齋藤氏「戦国時代の終焉」
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年の伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して、三成が蘆名家家臣の金上兼実に書状を送るなど、対応に追われていることが記されています。政宗は秀吉に使者を送りながらも、攻勢はやめませんでしたが、その背景として、政宗は「その後も佐竹氏を共通の敵とする小田原北条氏との紐帯は強まる傾向にあった」と中野氏の同書に記されています。政宗は北条氏との結びつきを強め、北条氏の存在を頼りにして、奥羽での攻勢を強めたものと思われます。しかし、秀吉がこの後、北条攻めを決定し、そ... ...続きを見る

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2017/04/21 10:41
石田三成の実像1899  中野等氏「石田三成伝」32 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して、三成が蘆名家のために尽力してきたことが記されていますが、結局、これは実を結びませんでした。  そのことについて、その経緯も含めて、中野氏の同書には次のように記されています。  「政宗は恭順を装いつつ、三成らに支持され越後国内の津川城に拠っていた金上盛実を9月中に降し、攻勢を続けることになる。蘆名家重臣金上盛実が一転して政宗に降伏し、伊達家に服従するという事態に至ったことで、これまで盛実を支持してきた上杉景勝や三成... ...続きを見る

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2017/04/20 09:15
白峰旬氏「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」5 朝鮮出兵3
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、小西行長は1万5000人の兵力数と記されているのに対して、「3月13日付の『陣立書』の軍団構成」(中野等氏『文禄・慶長の役』【吉川弘文館】所収)には、7000人とあって、数字に大きな違いがあります。  この点に関して、白峰氏の同論考では、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」の記載をもとに、「小西行長が先陣であったため」、九州の部将の中では「... ...続きを見る

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2017/04/19 09:37
石田三成の実像1898  中野等氏「石田三成伝」31 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して3
中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達政宗が会津蘆名領に侵攻した時点における三成の動向についても触れられていますが、その続きです。 中野氏の同論考では、7月26日付の蘆名義広の家臣である金上盛実宛の三成書状が取り上げられています。その書状の冒頭に「去る6日付の書状が、本日26日に到着しました」とあり、盛実書状の返書であることがわかります。さらに「このたびのお父上の討ち死は、まったく思いがけないことで、(その無念さは)手紙に書ききれません。とはいえ... ...続きを見る

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2017/04/18 10:41
石田三成の実像1897 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」4
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられています。  まず慶長4年、家康が秀吉の遺命を無視して諸大名と婚姻関係を結んだ時に、三成たち四大老五奉行が使者を派遣して家康を詰問した時に、家康は「己が諸国から三万の軍勢を召集し、これによって敵方の力に対してなしえた最大の兵力をもって固めた」という「イエズス会報告集」の記載について、白峰氏の同... ...続きを見る

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2017/04/17 10:18
石田三成の実像1895  中野等氏「石田三成伝」30 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達政宗が会津蘆名領に侵攻した時点における三成の動向についても触れられていますが、その続きです。  7月5日付の金上盛実ら蘆名家臣4名に充てた三成書状が取り上げられていますが、7月朔日付の金上盛実3充ての三成家臣と思われる3人の連署状の3日後に出されたもので、「数日遅れた」のは、「摺上原合戦勃発の報を受けた三成として、確報を収集しその上で秀吉の判断を仰ぐ必要があったからであろう」と中野氏の同書で推測されていますが、その... ...続きを見る

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2017/04/16 10:45
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」3 朝鮮出兵2
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、「諸侯四名を新王国の主君にすることを望」み、その四名とは、キリシタンの小西行長、黒田長政、異教徒の加藤清正、毛利吉成であることが述べられていると昨日付の拙ブログ記事で取り上げました。これに関して、今福匡氏の「真田より活躍した男 毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、秀吉が天正20年(1592)5月13日付、次いで6月3日付で、長政と吉成に対して書状... ...続きを見る

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2017/04/15 21:28
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」2 朝鮮出兵1
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、「(引用者注 秀吉)は非常に信頼を厚くしていた諸侯四名を指名し」、「彼らを新王国(引用者注 中国大陸における新しい征服地を指すと考えられる)の主君にすることを望んだので、皆の者は大いに驚いた」という記載があり、その四名とは、キリシタンの小西行長、黒田長政、異教徒の加藤清正、毛利吉成であることが述べられています。  この史料には、清正は行長の... ...続きを見る

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2017/04/14 10:45
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」1 朝鮮出兵以前
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、天正9年の織田信長の時代から、秀吉の時代(天正13年から18年の関白就任以後から朝鮮出兵より前の時代、天正19、20年の朝鮮出兵)、関ヶ原の戦い、石垣原合戦に分けて、軍役人数がどのように記載されているのか記され、それに対する考察が加えられています。  信長の時代は「天正9年の事例が出てくるのみであるが、信長や柴田勝家のほかに武田信玄(引用者注 武田勝頼が正し... ...続きを見る

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2017/04/13 10:09
石田三成の実像1894  中野等氏「石田三成伝」29 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して1
 昨夜の関西テレビの「ちゃちゃ入れマンデー」の中で、滋賀県が一押しする戦国武将として石田三成が取り上げられ、三成のCMも流されていました。もっとも、滋賀県では三成のことはあまり知られていないとして、数人の街頭インタビューも流されていましたが、確かに知名度は地元ではそれほど高くないのかもしれませんが、編集に意図的なものを感じました。この番組は出演者が言いたいことを言い合う場面が好きで、毎回見ているのですが。  さて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達... ...続きを見る

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2017/04/12 11:05
石田三成の実像1893  中野等氏「石田三成伝」28 蘆名家の奏者
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が蘆名(あしな)家・佐竹家の奏者として活躍していることも取り上げられています。  それに関して、天正17年(1589)3月24日付の蘆名家宿老の富田氏実宛の三成書状が掲載されていますが、その内容について、「金上盛備(かながみもりはる)の上洛をうけ、三成は蘆名義広(佐竹義重次男、義宣弟)自身がすみやかに上洛する様に求めている」と記されています。  中野氏の同書では、金上盛備は蘆名義広の家臣であり、天正16年末に「上洛し、秀吉に誼を通じ」、「会... ...続きを見る

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2017/04/11 11:47
石田三成の実像1892  中野等氏「石田三成伝」27 出羽庄内の問題に関わる
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が出羽庄内の問題に関わったことについても記されています。  まず出羽庄内の情勢ですが、「武藤(大宝寺)家の弱体化にともない、山形の最上氏へ依存しようとする勢力と、本庄繁長(越前守)を通じて越後の上杉景勝に接近する勢力との対立が深まっていた。天正15年(1587)の年末に武藤(大宝寺)義興が没すると、その跡に、本庄繁長がみずからの実子千勝丸(のちの義勝)を入れたため、これを不服とする親最上勢力が挙兵する。翌16年9月、本庄繁長はこの鎮圧を成功... ...続きを見る

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2017/04/10 10:07
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」20 掃部の戦いの状況
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、3月27日付の拙ブログ記事の続きです。  その史料によると、明石掃部は敵... ...続きを見る

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2017/04/09 11:10
石田三成の実像1891  中野等氏「石田三成伝」26 聚楽第落首事件と対本願寺政策
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年3月13日付で三成・増田長盛が出した大坂天満の本願寺宛に出した「条々」が取り上げられています。これは、聚楽第落首事件に関して、これに加わったとされる牢人衆が本願寺に逃げ込み、秀吉の命を受けた三成と長盛が関係者の身柄引き渡しを要求し、多数の関係者が処刑された出来事に関してのものです。  昨年放送された大河ドラマ「真田丸」では、この聚楽第落首事件についても描かれ、真田信繁が三成・大谷吉継とはかって、自害した尾藤道休を犯人に仕立て上げて、事態... ...続きを見る

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2017/04/08 10:29
石田三成の実像1890  中野等氏「石田三成伝」25 三成の島津家指南4
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、天正17年1月21日付の島津義久宛の細川幽斎・三成連署状が取り上げられていますが、「2日遅れの日付で、ほぼ同内容の指示が、義弘から国許の伊地知重秀(伯耆入道)に伝えられている」ことも記されています。  この書状について、次のような解説がされています。  「書き留めに『此旨可預御披露(このむねごひろうにあずかるべく)候、恐々謹言』とあるように、あくまで義久への披露状である。島津家中を政権の思惑に従わせる上で、義久の意向は絶対的であ... ...続きを見る

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2017/04/07 10:37
日本文学探訪128 植村武先生の短歌のロシア語翻訳4 誤読の例・上田敏氏の名訳詩
 当時のソ連政府が発行した「世界文学シリーズ」の「日本詩歌集」の中に植村武先生の短歌が5首、ロシア語に翻訳されて掲載されており、短歌とロシア語翻訳がどのように違うかを拙ブログ記事で取り上げていますが、その続きです。 ...続きを見る

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2017/04/06 11:34
石田三成の実像1889  中野等氏「石田三成伝」24 三成の島津家指南3
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、琉球問題に関して、天正16年(1588)11月22日付の島津家家臣の伊地知(いじち)重秀に充てた義弘書状が取り上げられていることは前述しましたが、その書状の中で、こういう記述もあります。  「詳しい指示は三成が書状をくだすでしょうし、白浜次郎左衛門が三成から直々に話を聞くことになっていますので、ここで詳しいことは言いません」と。  琉球派遣の御使者については不手際は許されません。断固として(使者を)下す様にしばしば石田三成(治部少輔)が仰ってい... ...続きを見る

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2017/04/05 10:27
日本文学探訪127 植村武先生の短歌のロシア語翻訳3 一茶の土蔵の歌
 当時のソ連政府が発行した「世界文学シリーズ」の「日本詩歌集」の中に植村武先生の短歌が5首、ロシア語に翻訳されて掲載されており、短歌とロシア語翻訳がどのように違うかを拙ブログ記事で取り上げていますが、その続きです。 ...続きを見る

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2017/04/04 18:06
石田三成の実像1888  中野等氏「石田三成伝」23 三成の島津家指南2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成の島津家指南について具体的に述べられていますが、その続きです。  天正16年(1588)8月12日付の三成・長岡玄旨(細川幽斎)充ての島津義久・義弘連署状の中で、「日向南郷(なんごう)を伊東氏に与えられると島津の領国支配に大きな支障を来すため、従前どおり伊集院幸侃に領知させるよう、取りなしを依頼している」と記されていることが取り上げられています。  このことに関して、「日向国内の島津領はかねてからの懸案であり、6月20日付の上井(うわい)秀... ...続きを見る

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2017/04/03 10:30
日本文学探訪126 植村武先生の短歌のロシア語翻訳2 野の煙の歌
 当時のソ連政府が発行した「世界文学シリーズ」の「日本詩歌集」の中に植村武先生の短歌が5首、ロシア語に翻訳されて掲載されており、短歌とロシア語翻訳がどのように違うかを拙ブログ記事で取り上げていますが、その続きです。 ...続きを見る

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2017/04/02 11:10
石田三成の実像1887  中野等氏「石田三成伝」22 三成の島津家指南1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館には、三成が取次として島津家の指南的役割を果たしたことが具体的に記されています。天正15年(1587)の九州攻めでは、三成は降伏した島津家の人質として亀寿姫の受け取りに行ったり、当主であった島津義久の上洛に際して、同行し歓待したりしています。  中野氏の同書では、翌16年4月23日付の島津家家臣の新納忠元に充てた細川幽斎・三成連署状が取り上げられ、「新納忠元書状に対する返書であ」り、「内容は肥後一揆の平定を祝し、島津義弘の上洛を促すものである」と記されていま... ...続きを見る

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2017/04/01 11:10

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関ヶ原の残党、石田世一の文学館 2017年4月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
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