関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1928 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」10

<<   作成日時 : 2017/05/31 10:13   >>

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白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月21日条には、各日記に伏見城攻めのことが記載されています。
 「北野社家日記」には、「明日、北野惣中は一人も残らず出て垣以下をするように申し付ける。乱世であるので、用心のためである」「伏見は一段と乱世なので、人斬りがある、とのことである」と記され、白峰氏は「『乱世』という認識に注意すること」と解説されています。
 乱世であるとの認識は、細川ガラシャの自害、伏見城攻撃が続くことなどによって、余計広まったものと思われます。同日記には「一昨日、丹後へ御人数が(軍勢)を遣わした、とのことである」という記載があり、これは奉行衆・毛利方による田辺城攻めのことを指していると考えられますが、こういうことも「乱世」という認識に拍車をかけたに違いありません。
 「義演准后日記」には伏見城攻めのことが具体的に次のように記されています。
 「伏見城攻めは(以前と)同じである。(伏見城への)寄せ衆はいまだ大将分(大将に相当する立場の者)が着いていないのか。京都のこのあたりの郷民は小栗栖山にて(伏見城攻めを)見物した、ということである。(伏見城攻めは)北東方の堀の際(きわ)まで攻め寄せた、ということである。戌の刻(午後8時頃)に大攻めがあり、鉄炮の音が天地を動かした。義演は長尾山にて(伏見城攻めを)見物した」と。
 この記載について、白峰氏は次のように解説されています。
 「庶民が伏見城攻めを山から見物したというのは、庶民にとって伏見城攻めは見物の対象であった、ということがわかり興味深い。また、義演にとっても伏見城攻めは見物の対象であった、ということがわかる」
 「伏見城への大攻めを夜の8時頃におこなうというのは、城攻めは昼間とは限らないことがわかり興味深い」と。
 義演よ庶民が伏見城攻めを見物していたというのは、いずれ伏見城が落ちると見ていたからでしょうし、そういう意味では危機感を覚えていなかった証拠かもしれません。奉行衆・毛利方 などによる豊臣公儀はゆるぎないものだと。
 「義演准后日記」には、「大将分が着いていない」という記載がありますが、この攻撃には大老の宇喜多秀家が参加していましたから、総大将がいないというのはおかしいということになりますが、「言経卿記」の22日条には、宇喜多秀家の軍勢が伏見城へ詰めることが完了したという記載があります(これについては後述します)から、21日には秀家は到着していなかった可能性があります。

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