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三成の実像1928 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」10
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月21日条には、各日記に伏見城攻めのことが記載されています。  「北野社家日記」には、「明日、北野惣中は一人も残らず出て垣以下をするように申し付ける。乱世であるので、用心のためである」「伏見は一段と乱世なので、人斬りがある、とのことである」と記され、白峰氏は「『乱世』という認識に注意す... ...続きを見る

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2017/05/31 10:13
三成の実像1927 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」9
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月20日条には、日記各書には伏見城攻めのことが記されています。  「北野社家日記」には、「伏見に夜前・今日、鉄炮(の音)が鳴る」、「左大史孝亮記」には、「今日、伏見(城)松の丸あたりで火事があった」と記され、また「義演准后日記」には次のように記載されています。  「伏見城へ秀頼様の... ...続きを見る

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2017/05/30 10:31
美術探訪9 「海北友松展」11 「妙心寺の金碧屏風」 寒山拾得・三酸図、画料請取状
 「海北友松展」の 「第七章 横溢する個性ー妙心寺の金碧屏風ー」には、「寒山拾得(かんざんじっとく)・三酸(さんさん)図」が展示されていましたが、寒山と拾得の表情がなんとも云えず、印象的でした。二人とも笑っているのですが、赤い口が少し開き、なんとも不気味な感じがしました。「寒山拾得」は、漢文でも出て来ますし、いろいろと画家が絵を描き、森鴎外の小説にもなっていますが、さまざまな奇行で知られる僧侶です。「三酸図」の方は、三人が酢をなめて、いかにも酸っぱそうな表情を浮かべている様子に笑いを誘われました... ...続きを見る

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2017/05/29 10:36
受贈御礼 白峰旬氏「いわゆる小山評定についての諸問題」をはじめとする御論考
 白峰旬氏から新たなご論考をいくつか賜りました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。ご恵贈いただいたのは、次のご論考です。  「いわゆる小山評定についての諸問題ー本多隆成氏抜刷の御批判を受けての所見、及び、家康宇都宮在陣説の提示ー」(2017年発行『別府大学大学院紀要』第19号 抜刷)  「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察(その一)」(2017年発行『別府大学紀要』第58号 抜刷)抜刷  「慶長5年9月13日の大津城攻めに... ...続きを見る

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2017/05/28 14:50
三成の実像1926 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」8
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月19日条に、「家康より奉行(衆)より(出した)十三ヶ條(=『内府ちかひの条々』)が流布し、(義演もそれを)一見した」と記されています。  この記述についての白峰氏の解説は次のとおりです。  「大名ではない義演が7月19日(『内府ちかひの条々』が出された翌々日)の... ...続きを見る

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2017/05/27 21:18
美術探訪8 「海北友松展」10 「八条宮智仁親王との出会い」 金碧屏風
 「海北友松展」の「第六章 八条宮智仁親王との出会いー大和絵金碧屏風を描くー」の会場に入ると、それまでの水墨画中心のモノトーンがちの世界とは、全く違った金色がまぶしいほどの華麗な世界が広がっていました。  展示されていた「浜松図屏風」と「網干(あぼし)図屏風」は、八条宮の依頼によって制作されたものですが、友松と八条宮との出会いについて、図録には次のように記されています。  「慶長7年(1602)、友松は細川幽斎や公家の中院通勝の推挙によって、八条宮智仁親王(後陽成天皇の実弟で桂離宮の創設者)... ...続きを見る

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2017/05/26 10:32
三成の実像1925 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」7
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の7月18日条には、細川ガラシャの自害についての記載があり、それは大坂へ後陽成天皇からの勅使として遣わされた広橋兼勝によって京都へもたらされたものであると記されていることを拙ブログ記事で前述しましたが、広橋については、「お湯殿日記」の7月18日条にも出て来ます。  すなわち、... ...続きを見る

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2017/05/25 10:52
美術探訪7 「海北友松展」9 「変わりゆく画風」2 講演会の解説
 「海北友松展」の「第五章 友松人気の高まりー変わりゆく画風ー」には、慶長4年以降、最晩年期までの水墨画が展示されていましたが、八条宮智仁(としひと)親王、亀井&#29574;矩(これのり)、近衛信尹(のぶただ)の求めに応じて描かれた作品も展示されていました(亀井氏に贈った「飲中八仙図屏風」については前述しました)。 近衛信尹は、「瀟湘八景図」を注文主に代わって友松に依頼するという仲介者の役割を果たしていることを示す書状も展示されていました。  また「婦女琴棋書画図屏風」が展示されていましたが... ...続きを見る

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2017/05/24 10:06
三成の実像1924 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」7
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の7月18日条に、細川ガラシャの自害のことが記されています。  すなわち、「世上の騒動は普通ではない。大坂にて細川忠興の女房衆(細川ガラシャ)が自害した。同じく息子12才、同じく妹6才等は母が切り殺させて殺したということである。(そして)私宅に火を掛けた。小笠原(秀清)・荒... ...続きを見る

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2017/05/23 10:29
美術探訪6 「海北友松展」8 「建仁寺大方丈障壁画」3「変わりゆく画風」1 友を失った影響
 「海北友松展」は昨日で終わりましたが、しばらくその報告は続けます。「第四章 友松の晴れ舞台ー建仁寺大方丈障壁画」には、[竹林七賢図」が展示されていました。  「竹林七賢図」とは、「中国・三国時代の末期、竹林に入って清談に耽った七人の賢者たちの姿があらわされている」と図録には解説されています。竹林の七賢については、高校の世界史でも漢文の授業でも出て来ます。  嵯峨美大で行なわれた講演会「海北友松の絵画を解析する」では、 「竹林七賢図」は、一筆描きのようで力強い描き方がされており、これは中国の... ...続きを見る

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2017/05/22 10:57
三成の実像1923 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」6
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月18日条の次のような記載を一昨日付の拙ブログ記事を紹介しました。  すなわち、「前田玄以(前田玄以の名前の部分は塗抹されている)・増田長盛・長束正家の3人が家康へ(ここには塗抹された部分がある)條数(=『内府ちかひの条々』)にして江戸へ遣わした、ということである。... ...続きを見る

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2017/05/21 10:32
美術探訪5 「海北友松展」7 「建仁寺大方丈障壁画」2 「雲龍図」 講演会の解説
美術探訪5 「海北友松展」7 「建仁寺大方丈障壁画」2 「雲龍図」 講演会の解説  写真は「海北友松」展の図録の表紙を撮ったものです。描かれているのは、建仁寺大方丈の「雲龍図」(二頭のうちの一頭)です。間近で見ると、一層重々しい存在感があり、神聖さも感じられます。 「雲龍図」について、嵯峨美大で開かれた講演会「海北友松の絵画を解析する」の中で、友松に限らず絵師は、中国の「本草綱目」の記載に従って、龍の部分、パーツを描くことが一般的であるとの佐々木正子嵯峨美大教授の説明があり、それぞれの部分について、坂本英房京都市動物園副館長の動物学的見地からの話も含めて解説されていまし... ...続きを見る

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2017/05/20 11:01
三成の実像1922 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」5
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、その続きです。  「義演准后日記」の7月18日条に、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。昨日(7月17日)の夕方、大坂城西ノ丸へ毛利秀元が(秀頼様の)御守護のために入った、ということである。この中(丸ヵ)は家康の住宅の丸である」と。  この記載について白峰氏... ...続きを見る

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2017/05/19 11:19
石田三成の実像1921 美術探訪4 「海北友松展」6 「建仁寺大方丈障壁画」1 恵瓊の功績
「海北友松展」の「第四章 友松の晴れ舞台ー建仁寺大方丈障壁画」には、建仁寺大方丈に描かれた「雲龍図」「花鳥図」「竹林七賢図」などが展示されていました。  方丈の復興の経緯については、図録に次のように記されています。  「天文21年(1552)建仁寺の方丈は兵火によって灰燼に帰したが、それが再興されたのは慶長4年(1599)のことであった。東福寺の瑶甫恵瓊【ようほえけい】(安国寺恵瓊)の尽力によって安芸・安国寺の建物が移築され、寺の『顔』ともいうべき方丈がおよそ半世紀ぶりに姿を現したのである... ...続きを見る

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2017/05/18 10:14
美術探訪3 「海北友松」展5 「飛躍の第一歩ー建仁寺の塔頭に描くー」 60歳過ぎて頭角
 「海北友松」展の「第三章 飛躍の第一歩ー建仁寺の塔頭に描くー」では、建仁寺の塔頭である大中院、霊洞院、禅居庵に描かれた絵が展示されていましたが、友松と建仁寺との関係について、図録には次のように記されています。  「60歳を過ぎた文禄・慶長の初め頃から、友松は頭角を現わし始める。その活躍の舞台となったのが、祇園にほど近い名刹、建仁寺であった。  当時、建仁寺には友松の支援者であった細川幽斎の甥にあたる英甫永雄(えいほようゆう)がおり、入寺した天正14(1586)から示寂する慶長7年(1602... ...続きを見る

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2017/05/17 10:25
石田三成の実像1920 「海北友松」展4 「歴代年譜景勝公」 秀吉が友松の絵を下賜
「海北友松」展の第二章「交流の軌跡」に、「歴代年譜景勝公」が展示されていましたが、図録の解説によれば、「文禄3年(1594)10月28日、景勝が秀吉を聚楽城下の自邸に招待したときの様子を克明に伝えた」ところが示されていました。  図録には、それに続けて次のように記されています。  「10月3日、増田長盛や石田三成を通じて秀吉の御成を取り付け、翌日には大坂で秀吉に謝辞を述べたことが同3日の記事がわかる。御成の当日は、唐絵の掛幅や池坊による立花三瓶などで飾り立てた座敷に秀吉を迎え、膨大な数量の品... ...続きを見る

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2017/05/16 10:20
石田三成の実像1919 「海北友松」展3「兼如筑紫道中記」2 是斎重鑑は猪苗代兼如
「海北友松」展の「第二章 交流の軌跡ー前半生の謎に迫るー」で展示されていた「兼如筑紫道中記」には、石 三成が海北友松と共に、九州に行ったことが記されていますが、その作者について、図録の解説では、次のように解説されています。  三成の九州下向に「友松が同行したことは、『続々群書類従』所収の紀行文『九州下向記』や『阿保文書』所収の同『是斎重鑑覚書』(内容は同じ。末尾に是斎重鑑の署名がある)によって既に紹介されている有名な事績である。だが、その著者であり、三成や友松と旅をした是斎重鑑がいかなる素... ...続きを見る

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2017/05/15 10:27
石田三成の実像1918 「海北友松」展2 「兼如筑紫道中記」1 政務の一方風雅な旅
  「海北友松」展の「第二章 交流の軌跡ー前半生の謎に迫るー」では、友松の長男である友雪が描いた「海北友松夫妻像」や、友松の出自などを記した、孫である友竹の手になる「海北家由緒記」、友松との交流を語る史料などが展示されていましたが、一番興味が惹かれたのは、「兼如筑紫道中記」です。石田三成が海北友松と共に、九州に行ったことが記されている、初公開のもの(このことについては後述します)であり、図録の解説では、次のように記述されています。  「慶長3年(1598)夏、石田三成は秀吉の命を受け、小早川秀... ...続きを見る

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2017/05/14 11:04
石田三成の実像1917 中野等氏「石田三成伝」42 北条攻め6 嶋左近の役割
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際における三成の行動が書状などを通じて明らかにされていますが、5月25日付の東義久宛の三成書状の最後に、「嶋清興」の名が出て来ます。  すなわち、「なお、使者の嶋清興(左近)に詳細は申し含めているので、懇ろな手紙は控えます」と。  嶋左近については、中野氏によって次のような解説が加えられています。  「この頃にはすでに三成に属していたことが分かる。こののち、嶋清興は東義久(佐竹中務大輔)や小貫氏を充所として書状を発しており、『指出(さ... ...続きを見る

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2017/05/13 10:57
美術探訪2 「海北友松」展1・講演会「海北友松の絵画を解析する」2 菊慈童図・柏に猿図
 昨日、国立京都博物館で開催中の「海北友松」展を見に行ってきました。かなりの混雑ぶりで入館するまで20分程待ちましたが、作品や関連史料を時代別、テーマ別に展示することによって、友松の人生や作風の変遷などがわかるように配慮されていました。  先週の土曜日、嵯峨美術大学での講演会「海北友松の絵画を解析する」が行われ、美術史的見地から佐々木正子嵯峨美大教授が、動物学的見地から坂本英房京都市動物園副園長が、友松の絵画を解析するというもので、絵画をスクリーンに写しながら解説されていましたが、「海北友松」... ...続きを見る

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2017/05/12 14:44
三成の実像1916 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」4
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、その続きです。  7月18日付の「北野社家日記」には「伏見にある奉行衆の家共に残らず城中より火を掛けた今夜、家康の衆が伏見の城に籠り、伏見にある奉行衆の家共に残らず城中より火を掛けた。今日、地震があった」と記されています。  この記述について、中野氏によって次のような説明が加えられて... ...続きを見る

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2017/05/11 18:14
石田三成の実像1915 中野等氏「石田三成伝」41 北条攻め5
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際における三成の行動が、もっぱら書状をもとに明らかにされていますが、5月16日付の岩城常隆充ての三成書状も取り上げられています。  その書状の最初に、「4月23日付の書状は、本日小田原の早雲寺に到着しました」とあり、三成書状はその返書であること、中野氏の同書の表現を借りれば、「三成の具体的な居所が早雲寺と知れる」こと、「この段階では三成も早雲寺にあって、秀吉のそば近くに仕えていた」ことがわかります。  この書状の内容について、中野氏に... ...続きを見る

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2017/05/10 10:07
美術探訪1 講演会「海北友松の絵画を解析する」1 無限定空間表現・幽遠法
5月6日、嵯峨美術大学での講演会「海北友松の絵画を解析する」を聴きに行ってきました。地下鉄で太秦天神川駅へ出、嵐電に乗り換え、車折神社駅から歩きました。歩いて10分足らずでした。  講演会はユニークなもので、美術史的見地から佐々木正子嵯峨美大教授が、動物学的見地から坂本英房京都市動物園副園長が、友松の絵画を解析するもので、新たな知見がいろいろと得られ、大いに勉強になりました。  友松は石田三成と関わりが深い絵師です。三成が筑前の直轄領の代官として九州に行った時に友松も同行していますし、同... ...続きを見る

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2017/05/09 11:43
三成の実像1914 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」3
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていることを拙ブログ記事で前述しました。  7月17日は家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が出された日ですが、その日付で書かれている日記の記述でいろいろ注目すべきものがあります。  「北野社家日記」には、「京、伏見でこのほか騒ぐ」と記されています。  この記述について、白峰氏は「家康家臣が伏... ...続きを見る

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2017/05/08 09:48
石田三成の実像1913 中野等氏「石田三成伝」40 北条攻め4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際の三成の動向について触れられていますが、天正18年(1590)2月28日に島津久保らとともに京を発ち、「4月3日に小田原付近に到着」しています。  一方の秀吉は、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)によれば、「3月1日京都発」、「(4月)3日小田原着」と記されていますから、三成は秀吉に先立って出発したことになります。  この後の三成の居所と行動ですが、中野氏... ...続きを見る

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2017/05/07 11:07
三成の実像1912 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」2
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」がまとめられていることは拙ブログ記事で前述しましたが、考察すべき記載がいろいろとあります。  慶長5年7月13日、「時慶記」に次のような記述があります。  「昨夜より伏見・大坂において風評・騒動(がある)と(いうので)これを尋ねるつもりである。(上杉討伐のために出陣した)陣立の衆(の中で)少々帰ってきた衆がいるとのことであり、(このこ... ...続きを見る

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2017/05/06 10:22
石田三成の実像1911 中野等氏「石田三成伝」39 北条攻め3
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めに関して、天正17年12月26日付の直江兼続・木戸寿三(元斎)充ての佐竹義宣書状が取り上げられています。その中で、三成のことも出てくるのですが、その書状について次のように解説されています。  「内容は、上杉景勝の上洛を祝し、上杉勢の伊達領(会津)侵攻を懇望する、というものだが、それに関連して蘆名義広の身上復活に降れている。蘆名家の復活自体は、もちろん秀吉自身の意向を前提とするものであり、秀吉は大関晴増(土佐守)を使者として、そうした意向を伝... ...続きを見る

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2017/05/05 10:27
三成の実像1910 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」1 
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」がまとめられ、30ページに及ぶ表として掲載されています。労作であり、「在京公家・僧侶などの日記」において関ヶ原の戦い前後のことがどのように記載されているのか、月日を追ってたどれるようになっています。時期は関ヶ原の戦いの半年前の慶長5年3月16日から、関ヶ原の戦いが終わって約3ヶ月後の同年12月24日にわたっています。  この「時系列ベー... ...続きを見る

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2017/05/04 10:57
漫画探訪48 「セーラームーン」分析 自己陶酔の世界・変身願望・ファッション性
 フェイスブックでも触れましたが、フィギュアスケートのメドベジェワ選手が、エキシビションでセーラームーンに扮して演技を披露していました。その演技に胸が熱くなりましたが、見事にその世界観を表現していたためでもあり、また懐かしさに駆られたからでもあったのでしょう。「セーラームーン」は娘が小学校の頃、夢中になって見ていたアニメで、食事中も見ていたので、自分もいやでもそのアニメを見ることになりました。  高校の教員時代に、授業でも「セーラームーン」について分析したことがありましたが、その世界観は自己... ...続きを見る

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2017/05/03 10:51
石田三成の実像1909 中野等氏「石田三成伝」38 北条攻め2 いろいろな任務で多忙を極める
 当方のフェイスブックのアドレスです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/05/02 10:42
京都探訪288 金地院1 方広寺鐘銘事件の仕掛け人は崇伝ではない・伏見城の遺構の方丈
京都探訪288 金地院1 方広寺鐘銘事件の仕掛け人は崇伝ではない・伏見城の遺構の方丈  最近は、フェイスブックの方にも連日、記事を書いていますので、興味ある方ばご一読くださればと思います。フェイスブックの方は本名で行なっています。アドレスは次の通りです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/05/01 10:54

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関ヶ原の残党、石田世一の文学館 2017年5月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
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