関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像1929 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」11

<<   作成日時 : 2017/06/01 10:26   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月22日条にも、各日記に伏見城攻めのことが記されています。
 「言経卿記」の記載は、次のようなものです。
 「伏見城へ夜毎(毎晩)夜毎(毎晩)だけ鉄炮を撃つ。宇喜多秀家の人数(軍勢)が伏見(城攻めの包囲攻撃中の陣)へ詰めることが完了し、晩より鉄炮を撃った。世上の雑説により大津から8000が(京都に?)上り、興門(意味不詳)に滞留した」と。
 この記載について白峰氏は次のように解説されています。
 「伏見城攻めで毎晩、夜だけ鉄炮を撃った、という記載は注目される。伏見城中の敵(家康家臣)を眠らせない心理戦の意味があるのか?」
 「宇喜多秀家の軍勢が晩から鉄炮を撃った、としている点に注意すること。夜間の鉄炮による攻撃もあった、ということになる」
 「宇喜多秀家の軍勢が7月22日に伏見城(攻めの包囲攻撃中の陣)へ詰めることが完了した点に注意すること」と。
 「言経卿記」の7月19日、20日、21日の条には、「昼夜鉄炮を撃つ」と記載されているので、「夜毎だけ鉄炮を撃つ」という記載と矛盾しています。このあたりをどう考えるべきかですが、この日以後の「言経卿記」には、夜に鉄炮を撃つという記載が続きますので、22日を境にして夜だけの攻撃に代わったのかもしれません。もっとも、このことはもっと検討する余地がありますが。
 宇喜多秀家が22日に伏見城へ詰めることが完了したという記載は、「義演准后日記」の21日条の「大将分が着いていない」という部分と矛盾しませんから、事実なのかもしれません。
 大西泰正氏の「豊臣期における宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)の「宇喜多秀家と関ヶ原合戦」の章には、秀家が伏見城攻めに加わっていたことが記されていますが、その章の注に、7月26日付の中川秀成宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署状から、「伏見城攻めの間、秀家が小早川秀秋とともに醍醐・山科・大津に陣取っていたこと」が確認されるとあります。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像1929 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」11 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる