関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1937 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」15

<<   作成日時 : 2017/06/10 10:57   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように、「時慶記」の7月23日条には、西洞院時慶が大坂城で石田正澄等の軍勢が多かったという記載がありました。ここに三成の名がないということは、三成が大坂城に来ていなかった傍証の1つになるのではないでしょうか。三成が挙兵後、大坂城に初めて入ったのは、伏見城の督戦に来た後の7月30日のことだと私は考えています(桐野作人氏の見解に従っています)。
 この記載からは、大坂城には石田正澄がいて、豊臣公儀の一人として政権内部のことを取り仕切っていたことがわかります。三成は七将による三成襲撃事件の責任を取らされて奉行職を解かれ、佐和山に隠居していましたが、正澄はそうではなく、政権内にとどまり、取次としての役目などをしていました。三成も引退はしたものの、嫡男の重家は秀頼のそばにいましたし、正澄が若い重家を補佐するような役目を果たしていたのかもしれません。正澄と三成は単に兄弟関係というだけではなく、豊臣政権下でそれぞれ別家の重臣として活躍していたことが、水野伍貴氏の「石田正澄と石田三成」(『歴史読本』2011年12月号所載)で指摘されています。
 三成は正澄が大坂城にいたからこそ、挙兵後もしばらく佐和山にとどまり、正澄を通じていろいろと指示を出していたのではないでしょうか。三成自身は正式には奉行を解かれたままでしたから、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」の原案も正澄を通じて増田長盛・前田玄以・長束正家の三奉行に示されたのかもしれませんし、弾劾状作りに正澄も関わっていたのかもしれません。このあたり、具体的にどうであったのかは、今後の検討課題ですが、正澄の存在の重要性はもっと注目すべでしょう。 
 さて、各日記の7月24日条には、引き続いて、伏見城攻めのことが記されています。
 「左大史孝亮記」には、「伏見での鉄炮の音が京中に響く」という記載があり、白峰氏の解説には次のように記されています。
 「伏見城攻めの鉄炮の音が京都市中で聞こえるということは、かなりの大音響であったことがわかる」と解説されています。「北野社家日記」の7月23日条の記載に、「大鉄炮」とあったように、この日も大鉄炮が使われていたのでしょう。
 また「言経卿記」7月24日条には、「伏見城に対して夜中に鉄炮を撃つ」と記され、「時慶記」同日条には、「西洞院時慶が京に帰った。伏見城に対する鉄炮の音が絶え間ない」とあり、これまでの伏見城攻めについての白峰氏の解説は次のようなものです。
 「豊臣公儀の軍勢は伏見城に対して相当な規模で鉄炮を撃っていることがわかる」と。
 

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