関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1938 中野等氏「石田三成伝」47 忍城攻め後 

<<   作成日時 : 2017/06/11 11:29   >>

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8日に、京都コンサートホールでのギタリスト松尾俊介氏の演奏会を聴きに行き、充実した贅沢な時間を味わいましたが、フェイスブックでこのことについて少し触れています。
   https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7

 さて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、忍城が開城した後の、三成の行動について詳しく述べられています。
 まず、「三成は、島津義弘から関東平定を賀す書状をうける。内容は、義弘上洛の時期について照会するものである。三成は関東の陣中にありながら、担当する大名の指南から免れるわけではなかった」と記されています。
三成は島津の取次であり、指南的な役割も務め、その役割は北条攻めの際も変わらなかったわけです。
 また7月19日付の佐竹家重臣の小貫氏・真崎氏宛の三成書状が取り上げられています。その書状の現代語訳は次の通りです。
 「そちらへの用を申し付け、井口清右衛門尉を遣わしました。この者の申し分をしっかりと諒解して、ご対応ください。委しい事は井口が伝えます」と。
 前述したように、この「井口清右衛門尉」は、5月2日付の佐竹義宣宛の三成書状にも名が登場し、やはり井口を佐竹家に遣わし、「具体的な戦況を告げるとともに佐竹勢の動きについての具体的提案をおこな」い、「そのまま佐竹陣営にのこり、義宣の諮問に応じるよう命じてい」ます。そういう佐竹家の事情に通じ、佐竹家と馴染みのある家臣を派遣することによって、佐竹家に適切な指示を与え、豊臣大名化をはかったのでしょう。三成が家臣を派遣するのは、後の佐竹家検地の時も同様でした。
秀吉は北条攻めを終えた後、宇都宮へ赴きますが、このことは中野氏の同書に記されているものの、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)井には、この点について、次のようにより具体的に記されています。
 7月「17日小田原発」「17日鎌倉を経て江戸へ」「19日江戸着」「20日江戸発」「26日宇都宮着」と。
 宇都宮で秀吉は、「奥羽や北関東の『国分け』を実施する」と中野氏の同書に記され、具体的に次のように記されています。
 「ここで伊達政宗・最上義光・佐竹義宣をはじめ、岩城(陸奥岩城)・戸沢(出羽仙北)・南部(陸奥南部)といった諸大名の領知が確認された。なお、三成が久しく肩入れをしてきた会津の旧主蘆名義広の独立大名としての復活は、実現しなかった。常陸国内を転戦していた義広は、結局秀吉への拝謁に遅れをとってしまったからである。ただし、遅参は理由のあることでもあるし、実家佐竹家や石田三成の後ろ盾をうけ、佐竹与力大名として存続することが認められている。以後、実名を盛重と改め、常陸の江戸崎を領することとなる」と。
 上記の5月2日付けの三成書状も、「こうした措置に関連するのであろうか」と推定されています。

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