関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1939 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」16

<<   作成日時 : 2017/06/12 10:11   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月24日条には、伏見城攻めのことだけでなく、大津城のことも記載されており、興味深い内容です。
 すなわち、「大津城は宇喜多秀家に渡す、ということである。ただし、(この話については)真実かどうか知らない。毛利(輝元)が瀬田橋に城を用意した、ということである。伏見城は堅固に持っている。このあたりが迷惑なのは、この時である」と。
 この記載についての白峰氏の解説にも、考えさせられることが記されています。
 「大津城を宇喜多秀家に渡すということは、この時点(7月24日)で早くも大津城の城主・京極高次について豊臣公儀に反逆する動き(家康方への寝返りなど)があった、ということか?とすると、この動きは通説よりも時期的に見て早いということになる。或いは、今後西上が予想される家康方の軍勢を迎撃するために大津城を豊臣公儀が接収する。という意味にもとることができる。なお、『(慶長5年)7月24日付中川秀成宛松井康之書状』には、京極高次が伏見(家康家臣の鳥居元忠が籠城した伏見城のことを指す)と持ち合わせて(示し合わせて、という意味か?)、家康へ別儀がないことが記されており(神戸大学文学日本史研究会編『中川家文書』、臨川書店、1987年、88号文書)、7月24日の時点で京極高次が家康に味方していることが報じられている。よって、京極高次が家康に味方して豊臣公儀に反逆する意思を明確にしたのはいつなのかという点については今後通説を再検討する必要があろう」と。
京極高次の動向について、桐野作人氏の「江の生涯を歩く」(ベスト新書)の「大津城」に関する記載の中で、 次のように記されています。
 「高次ははじめ、西軍首脳の大谷吉継に従って北陸攻めに出陣したが、美濃に転陣する途中で大津に戻り、家康に味方する態度を明らかにした。そのため、西軍は9月8日から毛利元康(輝元の叔父)を総大将に1万数千の軍勢(一説では4万7千とも)が攻め寄せてきた。高次はわずか3千5百ほどの城兵で抗戦した」と。
 これが一般的な理解であり、私もそのように思ってきました。奉行衆・毛利方が高次について、その動向に疑いを持っていなかったかどうか改めて検討する必要性を感じました。なお、8月5日頃の時点における諸将の配置と動員人数を記した史料が、「真田家文書」に残っています(白峰氏の「新『関ヶ原合戦』【新人物ブックス】にも掲載)が、高次は伊勢口(伊勢方面軍)に属しており、動員人数は1000人となっています。

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