関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1940「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」1 おねは中立?

<<   作成日時 : 2017/06/14 10:21   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」では、北政所は中立的な立場に立っており、秀吉政権のわが子同然の家臣同士の戦い(福島正則も加藤清正も石田三成も若い時から可愛がっていました)に心を痛めていたという捉え方がされていました。これは、従来、北政所が家康寄り、東軍寄りだったという見方がされており(司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」【新潮文庫】でもそういう描き方でした)、そういう見方からすれば、一歩踏み出した描き方がされており、その点は評価できる面があります。しかし、結論から云えば、私は白川亨氏の見解通り、北政所は三成ら奉行衆・毛利方の豊臣公儀側の立場に立っていたと思っています。もっとも、北政所が三成に反家康への決起を促したという白川氏の見解には、そこまで言えるのかという疑問は持っていますが。
 拙ブログでも前述したように、その番組では、北政所が小早川秀秋に家康に就くよう指示していたという見方は証拠もなく、江戸時代に作られたフィクションだという説が有力になっていると説明されていました。
 番組では北政所の存在は、秀吉死後も大きく、ゴットマザー的なものであったということも説明されており、関ヶ原の戦いの際も、両軍とも北政所の名を利用して戦い有利に運ぼうとしていたという点が挙げられていました。奉行衆・毛利方(いわゆる西軍)は家康弾劾状である「内府ちかひの条々」の中で、家康が北政所を大坂城西ノ丸から追い出して居座ったことを家康の罪だと記していますし、家康方(いわゆる東軍)は小早川秀秋宛の浅野幸長・黒田長政書状の中で、北政所のためにわれわれは尽くしているのだから、家康に味方せよと述べていることが示されていました。
 番組では、北政所が中立であったことを証すものとして、 「舜旧記」には、秀吉の月命日である18日に北政所が豊国社に参詣していない日として、慶長5年では4月18日と7月18日が挙げられ、前者は家康が参詣した時、後者は毛利輝元の妻が参詣した時であるとして、北政所はどちらかに荷担していると思われないように参詣を取りやめたのではないかと推測されていました。しかし、8月2日に毛利輝元が豊国社に参詣した時には、北政所も参詣したことも紹介され、この時、二人が会ったことはわからないものの、北政所が西軍に心を寄せていたのか、その謎は解明されていないと説明されていました。このことに関して、宇喜多秀家が7月23日に豊国社に参詣し、北政所が祈祷していることが「舜旧記」に記されていることは、番組では取り上げられていませんでしたが、この日のことにしろ8月3日のことにしろ、北政所が奉行衆・毛利方に心を寄せていたことを示すものではないでしょうか。
 4月18日の家康参拝に関しては、まだ会津攻めが始まる前であり、豊臣家臣同士はまだ決定的に分裂していたわけではありませんから、北政所が参詣していないことと関係づけるのは無理があるのではないでしょうか。むろん、この時期、家康は大老として横暴をきわめていましたから、北政所がそれを嫌ってのことだと考えられなくもありませんが。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1940「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」1 おねは中立? 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる