関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1941「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」2 

<<   作成日時 : 2017/06/15 10:37   >>

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 BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」では、前述したように、 「舜旧記」には、秀吉の月命日である7月18日に毛利輝元の妻が豊国社に参詣していると記されているものの、北政所は豊国社に参詣しておらず、北政所はどちらかに荷担していると思われないように参詣を取りやめたのではないかと推測されていました。しかし、7月23日に宇喜多秀家が、8月2日に毛利輝元が豊国社に参詣した時には、北政所も参詣や祈祷をしており、北政所が奉行衆・毛利方の豊臣公儀側に心を寄せていたことを示すものではないかという私の推測を述べました。
 もっとも、番組では触れられていませんでしたが、7月18日には三成も参拝したということが、「時慶記」に記されており、北政所が参詣していないということについては、何か事情があったのか、そのあたりは今後の検討課題です。
 番組の中では、8月3日と6日に秀頼の祈願によって湯立神事を行った際、釜が割れてしまったことに梵舜が驚いたということが「舜旧記」に記されていることも紹介され、亡くなった秀吉が何かを伝えようとしていたのかというナレーションが入っていました。豊臣家の将来の運命を暗示するような出来事であり、いかにもドラマなどで使われるような話ですが、事実とするなら確かに奇妙なことです。
 ちなみに、この秀頼の祈願については、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載についての時系列データベース」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、「舜旧記」の8月3日条に「豊臣秀頼より御祈祷(豊国社)」、8月6日条には「豊国社湯立。豊臣秀頼より立願(豊国社)」と記されています。
 また番組では、北政所が淀殿と力を合わせて大津城の開城交渉に関わっていたこと(秀吉の側室であった松の丸を救うためだと述べられていました)、関ヶ原の戦いの後、北政所が自分の養女としていた三成の三女の辰姫を手元で育て10年後に津軽家に嫁がせたことも紹介されていました。番組では、北政所が中立だったという見方が採られていましたが、これらの事実は、北政所が奉行衆・毛利方の豊臣公儀側に味方していたことを示すものではないでしょうか。前者の大津城の開城交渉に北政所が淀殿に関わっていたことについては、以前に拙ブログ記事でも取り上げたように、跡部信氏の見解です。北政所と淀殿の仲が悪かったという捉え方は従来からの通説であり、小説やドラマで格好の材料にされているきらいがありますが、そうではなかったという跡部氏の見解に、福田千鶴氏も同意を示されています。
 北政所が辰姫を津軽家に嫁がせたことについては、白川亨氏の「石田三成とそ一族」(新人物往来社)の中で、詳述されていますが、辰姫が嫁いだ時期について、慶長15年だと記されており、番組でもその見解を踏まえてのことだと思われます。
 

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