関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 美術探訪11 石田三成の実像1943 「海北友松展」13 最晩年期の押絵 三成に縁ある僧の賛

<<   作成日時 : 2017/06/17 10:22   >>

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 「海北友松展」の「第九章 墨技を楽しむー最晩年期の押絵制作ー」には、押絵のうち賛が施されたものが展示されていましたが、押絵とは図録には「屏風の一扇ごとに絵を押す(貼る)ところから、このように呼ばれるもの」と記されています。
 その中でも興味を惹かれたのは、「人物・花鳥図押絵貼屏風」で、十二図のうち半分が大徳寺の僧が賛を施しています。6人のうち沢庵宗彭、江月宗玩は三成と関わり合いが深かった人物です。沢庵も江月も、慶長4年、奉行を引退した三成が佐和山に母の菩提を弔うために瑞岳寺を建立した時、佐和山に赴いています。三成が関ヶ原の戦いの後、捕らえられて処刑された時、その遺骸を引き取ったのは、大徳寺の僧の春屋宗園や沢庵たちでした。海北友松が三成と関係が深かったのは、前述したとおりです。
 「禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風」にも、10名が賛を施していますが、その中に江月の名もあります。
 またもと里見家に伝来した押絵貼屏風のうち、「鷹図」「兔図」「芦雁図」に賛を施したのは文英清韓ですが、彼は方広寺の鐘銘の文を作成した人物であり、その鍾銘問題が大坂の陣を引き起こすきっかけとなりました。「白鷺図」「呂洞賓図」の賛を施したのは、海山元殊ですが、彼については、図録に次のように解説されています。
 すなわち、「妙心寺第105世。南化玄興の法嗣で、豊臣秀吉が建てた祥雲寺の第2世を務めたほか、山内に雲祥院を創建した。かの方広寺鍾銘事件の際にただひとり、銘文を作成した文英清韓を擁護したことで有名である」と。 海山が豊臣家寄りであることがわかりますが、妙心寺の塔頭寿聖院は関ヶ原の戦いの後、三成の嫡男の重家が出家して入った寺であり、後に重家(法名は宗亨)は寿聖院第3世になっています。宗亨は海山とも関係があったに違いありません。
 ちなみに、寿聖院は三成の父の正継が、妙心寺の伯蒲慧稜を開基として建立した寺であり、重家は関ヶ原の戦いの後の佐和山落城の際、城から脱出し、伯蒲和尚を頼り、伯蒲は家康の家臣の板倉勝重を通じて家康に重家の助命嘆願を願い出ました。それが認められた背景には、金地院崇伝への根回しがあったからではないかと、白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)で指摘されています。
 「海北友松展」には、もう1点「禅宗祖師・散聖図押絵貼屏風」が展示されていましたが、妙心寺の鉄山宗純が賛を施しています。鉄山が賛を施したのは、妙心寺の塔頭の大龍院においてですが、大龍院は慶長「11年、米子藩主・中村忠一が鉄山を請じて開いた」もので、「鉄山はここを退隠の場としたらしい」と図録に記しています。ちなみに、宗亨を援助した人物として藪内匠頭がおり、中村一忠の重臣であったと、白川氏の同書に記されています。
 
 

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