関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1944 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」19

<<   作成日時 : 2017/06/18 09:49   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように、「義演准后日記」の7月27日条には、「伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める、ということである」という記載があります。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「『伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める』ということは、大鉄炮は城の構造物の破壊について、鉄炮よりも効果がある、という意味であろう」と。
 伏見城攻めにおいて「大鉄炮」が使われたという記載は、これも前述したように、すでに「北野社家日記」の7月23日条に記載があります。実際、大鉄炮がいつから使われたかについては、今後の検討課題です。23日段階で使われていたのか、あるいは「義演准后日記」に記載があるように、伏見城がなかなか落城しないので、大鉄炮が使われるようになったのか。
 三成は挙兵した後も佐和山にいたと思われますが、伏見城が落ちないという連絡がいつ三成のもとに来たのかは定かではないものの、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』所載)には、「7月29日佐和山を出て、伏見城攻撃に参加」とありますから、少なくとも28日には攻撃の状況が伝えられ(それまでにも連日のように伏見城攻撃の様子は三成のもとに届いていたでしょうが)、三成が、参加を決断したのかもしれません。もっとも、この後、三成は大坂城に入っていますから、大坂城入城は奉行衆や毛利方と作戦の打ちあわせをする上で、予定通りの行動だったのかもしれません。その際に、なかなか落城しない伏見城に途中に寄ったのだとも考えられます。
 「義演准后日記」の7月28日条には、伏見城攻めについて、次のような注目すべきことが記されています。
 「辰の刻(午前8時頃)に濫紡人140〜150(人)が、金剛輪桜馬場まで押し入り、まず伏見城攻めの用と称して竹を伐り取る旨を申し掛けてきた。
 しかし、そのことを認めず、侍共が出て立ち向かい門を閉じて戦った。早鐘を突いて、当郷(醍醐)の民が武具にて蜂起して大事に及んだので、その賊徒は種々懇望して何もせずに帰った。(こうした結果になり)このことに安堵した」と。
 この記載について、白峰氏の解説には、「この騒動は、小早川秀秋の制札(本稿の7月25日の項を参照)が役に立たなかったことを意味する」と記されています。制札については、同日記の翌日にも記載があります。

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