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zoom RSS 美術探訪10 「海北友松展」12 画龍の名手・朴大根書状 龍図が朝鮮側に

<<   作成日時 : 2017/06/02 10:14   >>

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 「海北友松展」の「画龍の名手・友松ー海を渡った名声ー」では、北野天満宮・霊洞院・勧修寺などの「雲龍図」が展示されていましたが、それぞれ微妙に違いがあるものの、いずれもすさまじい気迫に満ちています。
 また海北家に伝わる、慶長13年2月に記された「朴大根(パクテグン)書状(写)も展示されていましたが、図録には「『海北友松夫妻像』に付随する形で海北家に伝来した」書状であり、「友松の画名が朝鮮にまで及んでいたことをうかがわせる史料として伝わる」と記されています。
 その書状の内容は「昔、素晴らしい水墨の屏風絵(友松筆の龍図)をいただいて以来、これに囲まれて日々を過ごしています。(中略)国内で意に叶う龍図を求めましたが、未だこれほどの妙筆を探し出すことはできません。もし彼らに友松の龍図を送ったなら、きっと天下第一と絶賛するでありましょう。そういう訳で、ご無理を承知で再度龍図を求めたく、ただご助力をお願いするばかりです」と。
朴大根の事績及び友松の龍図との関係について、図録は次のように記されています。
 「慶長9年(1604)に探賊使・松雲大師の訳官として初来日し、以後、同12年(1607)・元和3年(1617)・寛永元年(1624)の三度、回答兼刷還使の訳官とし来朝した。また本土には渡っていないものの、慶長11年(1606)8月に対馬差官・全継信に同行して対馬に至り、藩主の宗義智や家老の柳川智永(ともなが)(豊前守 ?〜1613)、対馬以酊庵の住持で宗氏の外交僧を務めた景轍玄蘇(けいてつげんそ)(1537〜1611)らと会見したことが知られる。
 景轍の語録『仙巣稿』によると、慶長14年(1609)、智永と景轍は己酉約条締結のため朝鮮に渡るが、その際、智永は友松筆の龍図を携行していたという。おそらくこの龍図が朴の要請に応えた品であったのであろう」と。
 景轍玄蘇は、天正17年(1589)6月、「日本国王使」の正使(副使は宗義智)として、朝鮮半島に渡っています。それが功を奏して朝鮮から通信使が日本に来、秀吉は天正18年11月に彼らに会いますが、朝鮮国が日本に服属するとは国書に書かれていないものの、秀吉は服属するものと見なし、朝鮮国に「征明嚮導(せいみんきょうどう)」(明国制服に際して朝鮮国がその先導をする)を要求します。宗義智たちはそれを「仮塗入明(かとにゅうみん)」(明に侵攻する日本軍に朝鮮側が道を貸す)と言い換えて通信使に伝えますが、副使の金誠一は義智と玄蘇に抗議します。玄蘇は通信使に同行して、漢城に行き、なんとか戦いを避けようと努めますが、それは実らず秀吉は文禄の役を起こしてしまいます。

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