関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1955 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」27

<<   作成日時 : 2017/06/30 10:31   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月3日条には次のような記載があります。
 「義演が豊臣秀頼の御祈祷をおこなう。伏見城より落ちた者(落武者)を搦めて出すように(大坂の)奉行より申して来た。もし在々にいるのかどうか、寺領分に堅く仰せ触れた」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「大老の毛利輝元ではなく、大坂の奉行が伏見城からの落武者狩りを命じている点に注意すること。このことは石田・毛利連合政権の実態を考察するうえで重要である」と。
 落武者狩りを命じていることからも、奉行が豊臣公儀として指示を与えていたことがわかります。豊臣公儀が秀頼を上にいただいていたこともこの記載からうかがえますが、秀頼の誕生日であるこの8月3日には、「豊臣秀頼より御祈祷(豊国社)」と「舜旧記」にも記されています。
 「時慶記」の同日条には、次のようなことが記されています。
 「西洞院時慶から島津義弘へ昨日書状を遣わしたところ、本日、返報がきた」と。
 「時慶記」の翌4日条にも、島津義弘のことが出て来ます。
 すなわち、「午の刻(真昼の12時頃)に西洞院時慶が島津義弘を見舞いに伏見へ行き、対面して帰った。(伏見)城の跡の焼けた様子は哀れであり、死体や骨が多かった」と。
 この記載についての、白峰氏の解説は次の通りです。
 「8月4日の時点で、島津義弘は伏見にいたことがわかる」と。
 島津義弘はこの後、三成と同様美濃方面に出陣しますが、豊臣公儀側の新たな動きについては、「時慶記」の10日条に次のように記されています。
 「(豊臣公儀方の)諸大名が出陣とのことである。京極高次は北国の堅田まて行く、とのことである」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。
 「8月10日の時点で豊臣公儀方の諸大名衆が出陣する点に注意すること。8月1日の伏見城落城後、8月上旬に新たな軍事攻勢が計画されたという意味であろう」と。
 三成が大垣城に入ったのは8月10日ですから、「時慶記」の記述が事実とすれば、三成は諸大名に先んじて行動に出たのかもしれません。

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