関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1930 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」12

<<   作成日時 : 2017/06/03 11:26   >>

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昨日、本能寺で行われた「信長公忌」の最後の方に参拝してきましたが、その報告はフェイスブックで少ししています。本能寺の変によって、秀吉同様、三成の人生も大きく変わったと云えます。
 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7

さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月22日条における伏見城攻めの記載の続きです。
 「左大史孝亮記」には、次のように記されています。
 「伏見での鉄炮の音が洛中(京都の市中)で聞こえる。(伏見から洛中までの)距離は3里(約11・8km)である」と。 
 この記載について、白峰氏は「伏見城攻めの鉄炮の音が京都市中で聞こえたということは、かなりの大音響であったことがわかる」と解説されています。この記載には聞こえたのが昼か夜かの記載はありません。
 「時慶記」には、次のように記されています。
 「西洞院時慶が巳の刻(午前10時頃)に大坂へ下向した。この度、諸大名衆の一統(家康を公儀から排除して、秀頼のもとに反家康で諸大名が全体にまとまった、という意味)のあと、(秀頼への)御見舞いのためである。秀頼へは前田玄以によって申し入れる予定である。紫竹(京都の地名。現京都市北区紫竹上竹殿町)の人足が相違があり、(来なかったので)急に近衛信尹へ願い出て馬を受け取り陸路(で大坂へ)行った。(その途中)堤の道は軍勢が多いため道(を行くのが遅く)、守口に泊った。その軍勢は小早川秀秋・大谷吉継・宇喜多秀家等の人数(軍勢)であった。また、毛利家の人数(軍勢)も行った。(これらの軍勢は大坂から)伏見・近江路へ思い思いに行く、と(のことである)」と。
 この記載についての白峰氏の解説は次のようなものです。
 「7月22日の時点で、公家の西洞院時慶がわざわざ大坂へ下向し、その目的が、この度、諸大名衆の一統のあと、(秀頼への)御見舞いのためとしているのは、この時点で公儀から家康を排除した後、豊臣秀頼を直接推戴した石田・毛利連合政権(豊臣公儀)が成立したことを公家(朝廷)として認めていたということになろう」
 「『秀頼へは前田玄以をもって申し入れる予定である』としているのは、前田玄以が秀頼への取次の役目を果たしていたことを意味する」
 「豊臣公儀方の主力戦力は小早川秀秋・大谷吉継・宇喜多秀家・毛利輝元であったことがわかる。7月22日の時点では、小早川秀秋は完全に豊臣公儀方であったことがわかる。これらの軍勢が伏見・近江路へ行った。ということは、伏見城攻撃や家康方軍勢の西上に対する近江での迎撃に向った、ということである」と。
 宇喜多秀家がこういう動きをしていたことは、前述したように、7月26日付の中川秀成宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署状から「伏見城攻めの間、秀家が小早川秀秋とともに醍醐・山科・大津に陣取っていたこと」がわかることと呼応しています。

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