関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1931 中野等氏「石田三成伝」43 北条攻め7 館林城攻め

<<   作成日時 : 2017/06/04 11:01   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際における三成の行動について具体的に述べられいますが、最初は秀吉に近侍していたものの、5月下旬に秀吉に命じられて、館林城ついで、忍城攻めに向かいます。
 三成は館林城を開城させますが、10数年前、オンライン三成会の人々と共に館林城跡を訪ねたことがあります。今は土橋門が再現されているだけですが、かつて三成が攻めたところだと思うと感慨深いものがありました。むろん、この時には忍城跡や三成が本陣が置いた丸墓山古墳なども訪ねました。
 三成の館林城攻めについては、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)には、次のように記されています。
 「館林城は東南に大沼があるため、他の三方より攻めたが、攻城方が苦戦し容易に落城しなかった。三成は大沼の中に幅九間の道路を造り、それをもって城内に乱入しようとして、工事に着手した。その時、小田原において、秀吉に降伏した北条氏勝が、館林にきて降伏を勧めたので、5月晦日、南条因幡守等も遂に降伏し、館林城を明け渡した」と。
 三成が館林城を攻める時に作った道路について、石田多加幸氏の「石田三成写真集」(新人物往来社)には、次のように記されています。
 「三成はこの城を包囲し、人夫を集めて近くの大袋山から木を伐り出し、大沼に投げ入れて、二筋の攻撃路をつくり、一挙に力攻めにしようとした。しかし、二筋の攻撃路は一夜にして湖底に沈み、力攻めは成功しなかった。このことは、城内に祀ってあった稲荷の加護と、当時も今も地元では、固く信じられているという」と。
 この記述がどこまで事実なのかはわかりませんが、典拠として「関八州古戦録」「北条記」が挙げられています。 中野氏の同書では、「秀吉は館林城を落とした三成を上野国の代官に充てようとする」と記され、その根拠として6月2日付の秀吉側近の安威守佐(摂津守)に充てた前田利家書状、それに対する秀吉の指示が掲載されています。 前者は、「今年の夏年貢(麦)について、武蔵や上野では収納の時期を迎えております。(年貢収納の)御代官などを誰かにお命じになりますか?(夏年貢は)相当の量になりますので、今のうちからはっきりとした方針をお決めになるべきかと思料します」
 後者は、「上野国の御代官は石田三成(治部少輔)を命じる。武蔵国の代官支配は分割して、手近に陣取る諸将に委ねる。担当の書き立て(名簿)については浅野長吉・木村重玆に遣わす」と。
 もっとも、「上野国の夏年貢収納のため、三成が自らの家中を上野国内にのこしたのか否か、残念ながら詳らかににはできない」と指摘されています。

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