関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1932 中野等氏「石田三成伝」44 北条攻め8 忍城攻め1 

<<   作成日時 : 2017/06/05 10:13   >>

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 昨日、甲子園に阪神・日本ハムの交流戦観戦に行ってきましたが、その記事はフェイスブックで写真入りで掲載しています。
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 さて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、三成の忍城攻めについて、秀吉の命令だったという見解が示されています。もっとも、このことはかねてより中井俊一郎氏が指摘されていることです。その中井氏の見解はすでに1998年7月発行「歴史群像シリーズ 石田三成」(学研)の中で、「忍城水攻めと文禄の役に見る高度な戦略眼」という題の論考で示され、同様の見解はオンライン三成編「三成伝説」・中井氏の「石田三成からの手紙」(共にサンライズ出版)でも記されています。しかし、残念ながら、中野氏の同書には、中井氏の先行研究があることについては全く触れられていません。
 中野氏の同書には、6月12日付の三成宛秀吉朱印状が取り上げられ、三成が「秀吉本人に攻城戦の戦略的指示を仰」いだのをうけての秀吉の回答だと記されています。その書状について、「忍城攻略に関して秀吉は、完全なる殲滅戦を意図してはいなかった。そこから、水攻めという選択肢が生じたようである。ただし、この戦略は三成の創見にかかるものではなさそうである」と記され、それを示すものとして6月13日付の浅野長政・木村重玆宛の三成書状が挙げられて、次のような指摘がされています。
 「三成の着陣以前に、忍城の攻撃方針が決定している可能性が高い。さらにここから、三成が忍城攻撃の主将でありながら、具体的な戦術については、浅野長吉らの指示をたびたび仰いでいるという事実が確認される。攻城戦の主将とはいえ、大軍を指揮するという経験に乏しい三成は、個々の戦術について、僚将に照会せざるをえなかったのであろう」と。
 この6月13日付の三成書状は、中井氏の「石田三成からの手紙」で取り上げられ、その書状について次のように指摘されています。
 「文面から察するところでは、三成が着く前に、長吉の手の者で忍城攻めは始まっていたようである。三成はそれを引き継いだわけだが、ここで三成は水攻めを既定路線化することに反対し、より積極的な城攻めを主張している。通説と大きく異なる三成の姿がそこにある」「三成自身は水攻めに批判的だったのだ」と。
 6月12日付の秀吉朱印状も、中井氏の同書で取り上げられていますが、次のように解説されています。
 「三成は忍城を水攻めにすることへの疑問を秀吉本人にもぶつけたようだが、その回答としてきたのは、水攻め処置に関する指示と、別奉行は送らない、忍城は三成に任せる、との秀吉の意志表示であった」
 さらに中井氏の同書には「水攻めに固執する秀吉の姿はエスカレートしてゆく」と記され、それを示すものとして6月20日付の秀吉朱印状が挙げられています。この書状は中野氏の同書でも取り上げられています。

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