関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1935 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」13

<<   作成日時 : 2017/06/08 16:36   >>

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 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の7月23日条に宇喜多秀家が「豊国社へ参詣した」という記載があります。
 宇喜多秀家はすでに同日記の7月5日条にも「豊国社に参詣した」と記されていますが、この記載について、白峰氏は次のように解説されています。
 「7月5日の時点で宇喜多秀家は上方にいたことになる」
 「この7月5日の宇喜多秀家の豊国社参詣を『前代未聞の物々しい出陣式』とする見解がある(白川亨『北政所は三成の決起を指示していた!』、『歴史群像シリーズ石田三成』、学習研究社、1998年、157頁)。また、同様に『このわずか三日後(引用者注 7月5日を指す)に『大老中で最も豊臣寄りの宇喜多秀家が豊国神社において出陣の儀式を執り行っており(後略)』とする見解がある(河合秀郎『西軍決起の謎』、『歴史群像シリーズ【戦国】セレクション決戦関ヶ原』、学習研究社、2000年、170頁)」と。
 7月5日の豊国社参詣については、以前にも紹介したように、西軍決起のためであったとする白川氏の見解に対して、大西氏によって否定的見解が示され、あくまで会津攻めの戦勝祈願のためであったと指摘されています(『豊臣期における宇喜多氏と宇喜多秀家』(岩田書院))。その委しい論証は省きますが、秀家が奉行衆・毛利方による豊臣公儀側に就くのを決めたのは、7月12日以降、15日の間だったと論じられています。
 7月5日の宇喜多秀家の豊国社参詣をどうみるかは、今後の検討課題でしょうが、「舜旧記」の7月23日条にある秀家の豊国社参詣は奉行衆・毛利方の戦勝祈願のためだったことは明らかであり、「北政所より祈祷」という同日記の同日条の記述が気になります。これは北政所が秀家を応援していたことを示すものではないでしょうか。
 「北野社家日記」の7月23日条には、「今日より、北政所が小早川秀秋の祈念のために七日参りをさせて、銀子一枚を下さる(北野天満宮)」と記されています。
 この時点では、秀秋は奉行衆・毛利方の豊臣公儀側に就いて伏見城攻めに参加していましたから、北政所は当然豊臣公儀側に味方していた秀秋を当然好意的に見ていたのではないでしょうか。よく北政所は家康の味方をしていたため、秀秋に対して家康に味方するよう促していたという捉え方がなされ、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)でもそのように描かれていますが、最近は否定的な見解が示されています。BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」で、北政所が秀秋に家康に就くよう指示していたという見方は証拠もなく、江戸時代に作られたフィクションだという説が有力になっていると説明されていました。

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