関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1966 中野等氏「石田三成伝」50 奥州仕置2 石川義宗宛書状 

<<   作成日時 : 2017/07/11 10:15   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年の石川義宗(次郎)宛の長谷川秀一・石田三成連署状が取り上げられています。義宗は、「陸奥石川郡の領主石川昭光の子」です。この連署状は、「収納年貢の三分の二を差し押さえ」ることを伝えるもので、こういう指示を記した秀吉朱印状の写が添えられていることが、この連署状の記載からわかります。
 また人質のことについても、この連署状には記されています。すなわち、「そなたが母親を人質として白川へ差し送られるとの事、尤もに思う」「「もう一度、浅野長吉(浅弾少)への報告を行い、(そなたを)糾明するための使者を派遣するので、諒解されたい。(母親を)人質として白川へ差し送ったのち、この書状を宇喜多秀家(備前宰相)へ御届けありたい」と。
 人質を取るというのが、秀吉の政策ですが、当時としては当たり前の政策とはいえ、生々しい感じがする内容の書状です。また、浅野長吉、宇喜多秀家の名も記されており、秀吉政権の命令系統がうかがえます。
 この連署状を受けて、「石川義宗は深刻な危機感を覚え、早速伊達政宗に書状を送り浅野長吉への執り成しを依頼し」ますが、その8月15日付の伊達政宗宛の義宗書状も、中野氏の同書で取り上げられています。
 その書状の中に、次のような記載があります。
 「兼ねて身上は保証されるものと聞き及び、安堵しておりました。ところが、今般石田三成(治部少輔)方と長谷川秀一(羽柴藤五郎)方からの書状によれば、当方が所務できる年貢が半分にも及ばないこととなっており、偏に覚外(思ってもないこと)のことです。委しいことは親(石川昭光)の所へも報告致しましたので、浅野長吉(浅弾)とご相談いただき、あるべき解決ーすなわち身上回復(一途)に至ることが本望であります」などと。
 浅野長吉(長政)は伊達家の取次であり、それだから、伊達家を通じて浅野長吉への取り成しを頼んだわけです。もっとも、伊達政宗は後年、浅野の対応に不満をつのらせ、文禄5年(1596)8月14日付で浅野に絶縁状を送っています。この書状については、山本博文氏の「豊臣政権の『取次』と奉行」(『天下人の一級史料』【柏書房】所載)で取り上げられ詳しく論じられています。九ヶ条にわたって記されているその恨みの内容は、「朝鮮出兵での理不尽な指示のこと、秀次事件の時、長政の上洛が遅れたのを自分のせいにしたこと、秀吉の糾明を受けた時に自分を見捨てたこと、自分と仲の悪い者に懇切にしていること、などです」と。
 石川義宗と伊達政宗との関係については、中野氏の同書に次のように記されています。
 「石川義宗の父昭光は伊達宗晴の四男として誕生するが、石川晴光の女(むすめ)を娶って角田石川家を継いだ。政宗の父輝宗は石川昭光の実兄であり、昭光と政宗は叔父・甥の関係にあたり、義宗と政宗は従兄弟同士となる」と。
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