関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1967 中野等氏「石田三成伝」51 奥州仕置3 岩城領検地1 岩城家への「覚」

<<   作成日時 : 2017/07/12 11:22   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年(1590)8月16日付で岩城家中の白土(しらど)摂津守・好雪斎岡本顕逸(良哲)に充てて、増田長盛と三成が発した「覚」が取り上げられています。
 この「覚」について中野氏の解説は次のようなものです。
 「三成と増田長盛は、岩城家執政の両名に充て、岩城家のとるべき基本政策を提示した。蔵入地と給人知行は、常隆時代のままとし、蔵入地の支配にあたる代官衆には、所務算用の適正・明瞭化を促している。三ヵ条目の規定は、能化丸が佐竹家の出身であることに拠る。岩城家の譜代家臣にはこれを嫌う勢力もあったと考えられる。最後の五ヵ条目を勘案すると、能化丸の就封により、岩城家は実質佐竹家の統制下に入ったことが明確であり、この『覚』の受給関係からも明らかなように、政権内では三成や増田長盛の指示を仰ぐことになる」と。
 このうち、「三ヵ条目の規定」というのは、「能化丸に対して疎略・悪逆の態度をとるものは糾明しその科の軽重に従って処罰する」というものです。
 また「五ヵ条目」は、「下々の者で意見があれば、白土摂津守と佐竹家から派遣された奉行が、実情に基づいて説明する。さらに(納得がいかない場合)は、(当該人物)上洛し、(長盛と三成の)両人へ訴え出ること」というものです。
 好雪斎が、「元来佐竹家の家臣であ」り、「義重・義宣に側近として仕え、能化丸が岩城家の養子となった時、根本里行(紀伊守)らと共に岩城家に入った」と中野氏の同書に記されており、「佐竹家から派遣された奉行」とは、好雪斎らを指しているものと思われます。
 この後の三成の動向ですが、「8月20日頃、葛西氏旧居城の登米(とめ)に入って浅野長吉と合流し」たと記されていますが、中野氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)には、その典拠として「伊達日記」(『成実記』)などが挙げられています。浅野と三成は「大崎・葛西旧領の仕置に従う」と「石田三成伝」に記されていますが、その典拠として、「石田三成の居所と行動」には、小林清治氏の「奥羽仕置の構造」が挙げられています。
 「三成は細川忠興とともに相馬領・岩城領の検地を担当」したということも「石田三成伝」に記されていますが、この時期、三成は各地の検地を担当していたのだと思われます。多忙のあまり、時によっては、家臣を派遣して、検地の実務を担当させていたと思われる。むろん、その場合も、検地の測量は、統一した尺、竿や枡によって、厳密に行わせていたはずです(自己申告である指出も認めていましたから、その点をどう考えるかという問題はありますが、その場合も間違いがないか測量はしていたのではないでしょうか)。そのことをうかがわせる三成書状も残っており、中野氏の同書でも取り上げられており、これについては後述します。
 

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