関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1968 中野等氏「石田三成伝」52 奥州仕置3 岩城領検地2 

<<   作成日時 : 2017/07/13 10:25   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、岩城領の検地の結果、9月29日付で三成が岩城家中に発した書状が、取り上げられています。その書状についての中野氏の解説は次の通りです。
 「岩城領検地の結果、知行地として認められるのは、事前に給人が指出(さしだし)として申請した高(たか)に限られ、秀吉の指示としてそれを越える出自の分は、能化丸の蔵入地として処理される。ただし、今年は暫定措置として、給人は本知高の三分の一にあたる年貢米を蔵入分として差し出すべきとする。納める期限の十月を過ぎると、差し出し分は四割に増し、さらに十一月までに納められない給人は闕所となる。給人に対しては非常に厳しい措置であり、指出を前提とした竿入れ検地によって、給人知行地の収公を進め、当主岩城能化丸の蔵入地を拡充し、その政治的・経済的基盤の増強・安定化を企図したのである」と。
 「竿入け検地」は太閤検地のことであり、1間の竿を使ったことに由来します。1間は6尺3寸であり、1尺(約30.3cm)の検地尺をもとに作製されたものです。島津領検地の際に使用された、三成の署名入りの検地尺が、尚古集成館に残されています。実際に計量する太閤検地に対して、指出検地は自己申告するものです。この岩城領検地の場合は実際に基準に従って測量した上で、指出分を越えた分は、能化丸の蔵入地にしたということになります。
 正確な検地によって、岩城領当主の能化丸の領地は確実に増え、それによって岩城家の大名としての基盤は強化されたわけです。これは島津家なども同様であり、検地によって大名としての基盤が固まりました。もっとも、島津領検地は、三成寄りの伊集院忠棟が大きな領地を与えられ、それが要因となって、後に島津忠恒が忠棟を誅殺することにつながるのですが。
 岩城領検地の場合も、佐竹家の家臣で岩城家執政となる好雪斎岡本顕逸にも岩城領で領地を与えることを述べた、10月5日付の三成書状が、中野氏の同書で取り上げられています。
 この書状についての中野氏の解説は次の通りです。
 「岩城に入る岡本顕逸の経済基盤は、佐竹領内にある岡本家の給知のみでは不充分と思量されるので、岩城領検地の結果として期待される『出来』の一部を、それにも充当するように指示している。このように、三成は岩城領における当面の課題に方向性を示すが、具体的には岩城家を親佐竹色の強いものに再編することを意味している。佐竹家自体が、三成や増田長盛を通じて政権内に位置づけられていることを忘れてはならない」と。
 関ヶ原の戦いにおいても、岩城家は佐竹家と同様の行動を取りましたから、佐竹家化は成功したと云えます。もっとも、佐竹家は家中不統一のため、家康領に攻め込むということはせず、三成らの敗北の遠因となりました。 
 
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1968 中野等氏「石田三成伝」52 奥州仕置3 岩城領検地2  関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる