関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1969  中野等氏「石田三成伝」53 奥州仕置4

<<   作成日時 : 2017/07/14 21:54   >>

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 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、奥州仕置に関して、三成の家臣が発している「札」が取り上げられています。すなわち、天正18年(1590)9月15日付で増田長盛の奉行の永原平左衛門尉と山中藤太及び三成の奉行の滝本太郎左衛門尉が出したもので、この「札」について、中野氏は「『田中郷三ヶ村』に対する大山義景の支配を増田長盛と石田三成の奉行が認めたことを周知させるものと言え」、「こうした『札』発給の前提には、この地域の支配をめぐる紛争が想定され、増田長盛と三成の家臣がそこに裁定を下した」と解説されています。大山氏は佐竹家一門であることも記されています。
 三成がいつまで奥州に滞在していたかについては、「10月5日に『今日岩城へ御越し』という岡本顕逸の動向が『御捻(ひねり)』で伝えられていること」が挙げられています。
 三成がいつ上方へ戻ったかは明らかではないものの、「11月30日には島津義久・義弘を茶席に招いている」ことが「天正年中日々記」に記されていることが挙げられ、「この頃には在京が確認される」と指摘されています。
 奥州仕置をまとめますと、8月10日、会津で秀吉は三成に「定」七か条を発し、三成らはそれに従って、奥州各地の検地や刀狩の政策などを進めていきます。その対象は岩城氏、相馬氏、旧大崎・葛西領などに及びます。
 「週刊 真説 歴史の道9 石田三成 『のぼうの城』の水攻め」(小学館)に、奥州における三成の足跡が地図で示されています。三成が検地を行った岩城氏の居城である磐城大館城、そこから北に進んだところに、三成が検地を行った相馬氏の居城である小高城跡(現在は小高神社の境内)、さらに北上し宮城県登米(とめ)の、葛西氏の居城であった寺池城跡(葛西領接収のため三成ら奥州仕置軍が入城)が掲載されています。三成らが太平洋側を北上したことがその地図で確認できます。これらの場所は、まだ足を運んだことがないので、一度行ってみたいと思っています。
 その地図には秀吉が奥州仕置を行い、伊達政宗の監視役として蒲生氏郷が入城した黒川城跡(会津若松城)も掲載されていますが、ここには訪ねたことがあります。
 小田原城が開城し、奥州仕置が完成することによって、秀吉の全国統一がなり、その後、島津領や佐竹領をはじめとする検地が統一基準で行なわれ、全国の石高が明らかになります。検地の中心的な役割を果たしたのは三成であり、島津領と佐竹領の検地は、自分が指示し、家臣たちを現地に派遣して実施しました。

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